2017年4月11日火曜日

時代劇小説『みこみかる』 三三 井戸(八)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。昨晩宿直だった息子の深一郎は、昼過ぎに目を覚ます。裏の井戸で顔を洗うが、手拭いを忘れてしまい、袖で拭こうとしたが……其処へ、お藤が来て、手拭いを差し出す。が、深一郎は誤ってお藤の手をギュッと握ってしまい、彼女を驚かせてしまうのだった。


     三十三 井戸(八)
 
 深一郎は母から包みを受け取ると、家を出た。
 暫く歩くと、向こうから長助が駆けて来た。
「あれ、お出掛けですか?」
「ああ」
 長助はこちらが手に提げている包みに興味津々(しんしん)で、目を凝らしていた。
 深一郎は親指で家の方を指差しながら、
「おい、昨日来たそうだな」
「嗚呼、はい。昨日の晩に。お藤ちゃんにお会いになりました?」
「ああ……三河屋が連れて来たのか?」
「いえ、違います。吉井の旦那の紹介ですよ」
「……」
 深一郎は呆然としたが、気を取り直して、
「吉井さんが取り成したって、何でまた?」
「ああ……何でも奉公先を探している娘がいるってのが、吉井の旦那の耳に入って。それは丁度良いって事で、内に紹介したそうです」
「ふ~ん」
「前居た奉公先の時の請人と吉井の旦那が顔見知りだそうで」
(ん? 出替わりの時期を疾(とう)に過ぎているのに、何故今頃探す? 何か有ったのか?)
「前の奉公先は何処だ? 聞いているか?」
「いえ、聞いていません。自分は昨日一日中家に居て、迎えには行かなかったんで。そこまで詳しい話はちょっと」
「態々(わざわざ)迎えに?」
「はい。帰りに皆で。吉井の旦那も一緒で。お藤ちゃんを人宿まで迎えに行ったそうです」
「ふ~ん」
「兄貴に聞いときますか? 知っているかも」
「ああ。うん……あっ、待て。次郎や卯助には聞いてもいいが、俺が聞いたとは言うなよ」
「はい」
「分かったら、後でこっそり教えろ」
「はい」
「頼んだぞ」
「はい……所で、何処にお出掛けになるんですか?」
「ん? あー、石橋の伯母さんの所だ」
「えっ!」
「お前も来るか?」
「いや、いいです」
「付いて来い。羊羹が食えるぞ」
 ほれ、と包みを持ち上げて見せたが、
「遠慮しときます。自分は風呂焚きしないといけないんで。それじゃ」
 からかったのだが、効果覿面(てきめん)。長助は脱兎の如く家の方に逃げて行った。

2017年4月9日日曜日

時代劇小説『みこみかる』 三二 井戸(七)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は玄関先で三河屋を応対していた。口入屋の間で、お藤という名の小女と請人の半次郎が美人局紛いの事をしているという話に耳を疑ったが、まさか今、内に居る下女がそれだとは口が避けても言えず。三河屋が帰った後、お美代はお藤に針仕事を頼むが……お藤の素直な態度を見ていると、やはり三河屋の話は出鱈目(でたらめ)に思えた。


     三十二 井戸(七)

「うう~ん」
 と、深一郎は目を覚ました。
 玄関脇の厠で用を足し、茶の間に顔を出してみると……母は針仕事を放り出して、貸本を読んでいた。場が悪そうに、本を置くと、
「あら、起きたの?」
「はい」
「羽織の解(ほつ)れ、直しておいたから、持って行きなさい」
 一応やる事はやっていたらしい。
「今、何時です?」
「もうそろそろ八つだと思うけど。嗚呼、鈴木様の所に行くんだったわね?」
「はい」
「お昼はどうする?」
「んー、減ってないんで、取り敢えずいいです」
「そう」
「あっ、見舞いの品は?」
「羊羹(ようかん)が有るから、それでいいでしょう?」
「はい」
「今、用意するから。顔でも洗って来なさい」
 母は台所に出て行き、自分も後に続こうとしたが……そちらにはお藤が居るのを思い出して足が止まった。朝の対面の時のように、顔を背かれるのではないかとの想いが頭を過ぎった。
(自分の家で何を躊躇している。えーい、成るが儘(まま)よ!)
 勇気を振り絞って台所に入ったが、
「ほら、邪魔っ!」
 羊羹の入った箱を片手に、茶の間へと戻ろうとしていた母と肩がぶつかり、邪険にされた。
 と、其処へ、
「お早う御座います」
 と、お藤が手を止めて、声を掛けてきた。こちらはちゃんと真面目に針仕事をしていた。
「おっ」
 と、深一郎は短く返事をすると、そのまま裏の井戸に出た。水を汲んで、じゃぶじゃぶと顔を洗っていたが、
「あっ!」
 手拭いが無いのに気付いた。
(まあ、いいか)
 と、袖で拭こうとした所……軽い足音が近づいて来た。小刻みで、軽やかな足音でで、母のでないのは明らかだった。
「どうぞ」
「おっ、済まんな」
「いえ」
 差し出された手拭いを受け取ろうとしたが……顔が濡れて視界が利かなかったのと、若干顔を背け気味にした所為で……お藤の手首の辺りを思いっきり、ぎゅっと摑んでしまった。
「きゃっ!」
「あっ、済まん。間違えた」
 直ぐに手を離して謝ったが、お藤は右手を胸に引き寄せて、困惑顔をしていた。
「わっ、態(わざ)とではない。本当だっ!」
「……」
 お藤は無言で頭を僅かに下げると、家の中へと駆けて行った。
 深一郎はそれを虚(むな)しく見送る事しか出来なかった。

2017年4月8日土曜日

時代劇小説『みこみかる』 三一 井戸(六

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は下女の件で訪ねて来た三河屋(口入屋)の応対をする。夫の同僚の吉井が紹介した下女を雇い入れた事を詫びるお美代。三河屋は次回こそは手前に紹介させて下さいと懇願しつつ、序(ついで)に、最近、口入屋の間で出回っている触れの事を話し出す。何でも、とある大店で恋愛沙汰を起こした、とんでもない小女がいるという話であったが。十中八九、いや、間違い無く、内に新しく来たお藤の事と思われ……


     三十一 井戸(六)

「言い寄ってきたのは男の方だ。こちらは悪く無い。そんな事より、早く新しい仕事を紹介しろと凄んで来て。その口入屋は随分と怖い思いをしたそうですよ。無茶苦茶な話だと思いませんか? 問題を起こしておいて、次の仕事を紹介しろというのは?」
「はぁ」
 と、お美代は一応相槌をしておいた。
「きっとあれですよ」
 と、三河屋は声を殺し、左目を顰(ひそ)めて、
「お藤とかいう娘を使って、奉公先の主なり、その息子を誘惑して、体の関係を持たせて。その後で、無理矢理手籠めにされたとか騒いで、金を出させる。美人局、強請りの常習犯ですよ、きっと。内にも来ないかと戦々兢々していますがね……因みにその娘の名はお藤というのですが、半次郎諸共信州者だそうですよ」
(大当たり~! とか言っている場合じゃないわね。何だか凄い言われ様なんですけど。う~ん。今、内に居るのがその本人ですなんて、とても言えないわ。違う名を言って誤魔化しても、後で知れたら気不味いし。はぁ、困った!)
「私も人に会う毎に、その二人組には気を付けるよう言ってるんですよ」
「嗚呼、そうなんですか。怖い話ですわねぇ。主人の耳にも入れて置かないと」
「はい。その方が宜しいですよ」
「態々お知らせ下さり、有難う御座います」
「いえいえ、こちらこそ御役に立てれば何よりです」
「必ず主人に伝えて置きますっ!」
 と、お美代は語尾を強めて、深々と頭を垂れた。
 三河屋もこちらの雰囲気を察したようで、
「ああ……では、手前もそろそろ失礼します」
「今日は御足労を御掛けして、申し訳御座いませんでした。次の機会の時は宜しくお願いします」
「はい、こちらこそ。次こそは必ず真面目な子を紹介させて頂きますから」
 と、三河屋はやっと帰ってくれた。
(ふ~。立ちっ放しで話を聞くのも疲れるわね)
 お美代は額の汗を拭(ぬぐ)うと、菓子箱を持ってそのまま台所に出た。
「お客様は帰られたわ」
「はい」
 お藤はお茶が出せるよう準備はしていたようだが、空振りとなった。三河屋がお藤と顔を会わせたら、どんな顔をするか? 見物と言えば見物だが……
(まぁ、会わせない方が正解か)
「これ、中身は煎餅だから。八つのお茶の時に頂きましょう」
「はい」
「掃除は終わり?」
「はい。茶の間意外は終わりました」
「茶の間はお昼の後でいいから」
「はい」
「それまでは、針仕事をお願いするわ。次郎達の分の綿入れをして欲しいの」
 と、あれこれと指図をした。
 お藤は大きな目を見開きながら、
「はい」
 と、その都度深く深く頷いて……やはりどう見ても、自分から男に言い寄って、ちょっかいを出すような尻軽には見えなかった。それに、慶庵(けいあん、=口入屋)の間に出回っているというその触れは、何処か悪意の様な物が感じられたし。

2017年4月6日木曜日

時代劇小説『みこみかる』 三十 井戸(五)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は息子の羽織の破れを繕い終えるや、公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を取り出し、読み耽る。憂ひの君は里の娘を見染めて、見事懇(ねんご)ろとなる。二人の仲は日に日に深まるが、其処に山賤(やまがつ)が割って入ろうとして……と、其処まで読んだ所で、来客があり、お美代は自ら玄関に向かった。


     三十 井戸(五)

「お待たせしました」
「嗚呼、奥様ーっ!」
「あら、三河屋さん」
 訪問者は口入屋で……招かざる客だが、お美代は噯気(おくび)にも出さず、
「もしかして、下女の件で?」
「はい!」
「嗚呼。お願いしていたのに、急にお断りして、誠に申し訳御座いません」
「いえ。元はと言えば、好(よ)からぬ娘を紹介してしまった手前が悪う御座います」
「はぁ。でも、どちらかに声を掛けていたとか、御迷惑お掛けしませんでしたか?」
「いえ、それは御心配無く。それより、吉井様から新しい娘を紹介されたと伺いましたが」
「はい。昨日の晩に主人が連れて帰って来ました」
「そうですか。なら安心しました……所で、大変厚かましいお願いなのですが」
「何でしょう?」
「この次の出替わりで新しい子を入れる時は、何卒(なにとぞ)手前どもに任せて頂けませんでしょうか?」
「はい。それはもう、是非お願いします」
「嗚呼、その御言葉を頂けるとは。本当に有難う御座います」
 三河屋は恐縮しきりだが、半分嬉しさを隠し切れずにいた。
 次の出替わりが半年後か、それとも一年後になるのかは不確かではあるが、商売する身としては、定町廻り同心の家の御用達とあらば箔も付く。世間の信用は得られるし、同業者にも何かとでかい顔が出来る。何かの時は口を聞いてもらえて、頼りになる。是非とも失いたくない得意先である訳で。
「これ、つまらない物なのですが」
 と、三河屋は菓子箱を差し出した。
「嗚呼、お気遣いなさらずに。この間も頂いたのに」
「いえいえ。どうぞ、御納め下さい」
 三河屋が毎回持参するのは煎餅(せんべい)だった。行列しないと買えない評判の店の物で、決して安いという訳でもないし、味も好いのだが、中に金品が入っていた例は嘗(かつ)て一度も無かった。代わりに、夫の袖の下には入れているのだろうが。
「所で、新しい子は奉公はこの度が初めてで?」
「いえ。他所で二年程働いていたそうです」
「嗚呼、そうですか。二年……失礼ですが、その子の名は?」
「名ですか?」
「ええ」
「……」
 三河屋の表情が急に曇ったので、お美代も答えるのに躊躇した。
「嗚呼、いえ。ちょっと気になる事が御座いまして。実は我々の仲間内にとある触れが出ていましてね。店の名は伏せますが……ある大店(おおたな)の主が一人娘のお嬢さんに婿を取ろうとしたのですが、よりによって、その家に奉公している小女(こおんな)が、その婿の男に言い寄りましてね。それが露見して、婿入りの話自体が流れてしまったんです」
 この時点で十中八九、いや、間違いなくお藤の事だと思われ。
「その小女はとんでもない事を仕出かした訳ですが、飽きもせずにまた下女の口にあり付こうと、あちこち仕事先を探しているという話なんですよ。おまけに請人の半次郎というのが、これがまた凶暴らしくて。顔に大きな傷が有るとかで」
(出た、半次郎! でも、顔に大きな傷って……主人はそんな事、言ってなかったわよね。初耳だわ)

時代劇小説『みこみかる』 二九 井戸(四)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。息子の深一郎は宿直を終えて、屋敷に帰って来たが、裏の井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。新しい下女だとは露知らず。家を間違えたと表へと飛び出したが……母のお美代が玄関まで様子を見に来て、漸く我が家だと合点。と、此処で深一郎は、明日から暫くの間、本書方勤めになる事を母に告げて……その後、深一郎とお藤は改めて初対面の挨拶を交わした。


     二十九 井戸(四)

 息子は飯を食べ終えると、自室にさっさと引き上げて、寝てしまった。
 一方、お美代は羽織の綻びを直すのに格闘した。それをやっとこさ終えると、三度『見聞男女録』を取り出した。
(あ~、もうっ! 思いっきり邪魔が入ったわね)
 さてさて。憂ひの君はお供の衣服を借りて身を窶(やつ)すと、娘の前へと進み出た。
 道に迷ったと言って、娘の警戒を上手に解くと、菜を摘むのを手伝う。
『仄(ほの)咲きて千入(ちいり)染むるる藤の花 下照る芹(せり)を折りて香ぞする』
 歌なんぞ詠んでやったりして、娘はもう、うっとり。
『君は引きしろへば、娘の手より芹が落ちにけり云々(うんぬん)』
 と、此処までしか書いていないのだが、其処は其処。読者の娘達の頭の中はさぞかしモヤモヤのしっ放しに違いない。
 君は明日も此処で会おうと娘と約束すると、お土産の芹を手に山を下りて行った。
 はい、次! 三段目の『手結び』。
 憂ひの君は次の日も山に登る。
 娘は遅れてやって来るが、その手は畑仕事で汚れていた。君は娘を川縁に連れて行き、その手を洗ってやる。
 ここで君は、喉が渇いて堪らない、どうかその手で私に水を飲ませておくれ、と娘に懇願する。
 娘は両の掌(てのひら)で小川の水を掬(すく)って差し出すが、君は直ぐには飲もうとしない。何故飲まないの?と聞く娘。
 君は答える。ほら、見てごらん。掌の水に藤の花が映って、綺麗な事。
 娘が掌の水を覗き込むと、水面には自分の顔が映ていた。
 君は駄目押しの一言を。あなたは山藤のように美しい。
 娘は掌を結んだまま、顔を赤らめる。
 漸く、君は娘の掌に顔を埋めて、水を飲んだ……此処も其処から先は書かれていないが、もう頭が爆発しそう。本を読んでいる娘達は全員、掌を結んで川の水を掬う真似をしているに違いない。序(つい)でに自分の顔を掌に埋めてみたりして。
 さぁ~、さぁ~、四段目に突入。
 憂ひの君は足繁く娘の元に通う。余りの熱の入れように、家司の惟武が諌めるが、君は聞く耳を持たない。服を早く貸せ、と逆にせっつかれる始末。
 諦め顔の惟武は、『程なく移ろひさうらふなり』と嘆息しつつ、歌を詠む。
『つめどなほ匂いおこせり山藤や 衣のあるじうしろめたしも』
 さぁ、此処で遂に山賤(やまがつ)の御登場~。
 憂ひの君と娘が小川の辺で睦まじくしていると、山賤が姿を見せる。君は娘に手を引かれて、一緒に木陰に隠れる。
 山賤は娘の名を呼び続けて、辺りを隈なく捜し回る。
(嗚呼~、このままでは見付かってしまう……)
「御免下さいっ!」
 と、良い所だったのに、玄関から声が聞こえた。
 お美代は本を隠すと、自分が出るからとお藤に一声掛けて、玄関に向った。

2017年4月2日日曜日

時代劇小説『みこみかる』 二八 井戸(三)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。病状が回復した憂ひの君は散策に出掛ける。山へと分け入ると、咲き誇る藤の花の下で賤(しず)の女(め)が山菜採りをしているのを見つけ……と、此処まで読んだ所で、邪魔が入る。宿直から帰宅した息子の深一郎が井戸で洗濯をしていたお藤と鉢合わせしたが、間違えましたとか言って、慌てて出て行ったという。


     二十八 井戸(三)

 外を覗いてみると……息子が門の辺りで、頻(しき)りに敷地の中を窺(うかが)っていた。
「深一郎!」
「あっ、母上」
「何をしているの、そんな所で?」
「あ、いえ……あっ!」
 息子は漸く気付いたようで、裏の方を指差しながら、
「もしかして、新しく来た下女ですか?」
「そうよ。昨日の夕方来たのよ」
「なんだ~」
「なんだじゃないわよ。表に飛び出したっていうから、来てみれば!」
「いやぁ、寝惚けて全然違う家に入ったのかと思ったんですよ」
 と、深一郎は頭を掻いていた。
「ほら。そんな所に立ってないで、早く入りなさい」
「はい」
「朝御飯は?」
「食べます……あっ、そうだ、母上! 自分は明日から暫くの間、本所方の方に通う事になりました」
「本所方?」
「はい。と言っても代役ですよ。鈴木さんがまたご病気になられて」
「まぁ」
「今度は少し長引きそうなので、治られるまで代わり行けと言われました」
「あら、そう……鈴木様、そんなにお体がお悪いのかしら?」
「どうなんでしょうね。まぁ、今日暇な内に、見舞いがてら挨拶に行こうと思っていますので。その時にでも」
「じゃあ、何かお持ちしないとね」
「はい、お願いします。あっ、それとこれなんですが……」
 と、深一郎は左腕を上げた。
 羽織の脇の所が解れていた。
「あらっ!」
「これもお願いします」
「はいはい……あっ! 紹介するから、ちょっと来なさい」
「はぁ……」
 台所に戻ってみると、お藤は土間に立って待っていた。
(さて、どんな顔をするかしら?)
 お美代がちらっと息子の顔を見てみると、懸命に顔を作っていた。
「紹介するわ。息子の深一郎よ」
「藤です。宜しくお願いします」
 と、お藤は体が二つに折れんばかりに深く頭を下げた。
「深一郎です。こちらこそ宜しく」
 頭を上げたお藤は再び息子と目が合ったのだが、思いっきり視線を逸らした。後はもう俯(うつむ)くばかりで……
(ありゃまぁ!)
「ああ、お藤。深一郎の膳の用意を頼むわ」
「はい」
 息子の方はと言うと、そそくさと自分の部屋に行こうとしていた。
「羽織、脱いだら、こっちに持って来なさいよ!」
「はぁ」
 と、深一郎は返事だか欠伸(あくび)だか判らぬのを返してきて、視界から消えた。
 初心な息子が独りあたふたする。対して、今まで男の視線を死ぬ程浴びてきたお藤は平然とそれを受け止める。そういうのを予想していたのだが……結果は寧ろ逆で、お藤がこうも息子の事を意識するとは意外であった。
 前の奉公先でああいう事が有ったので、雇い主の息子に過剰に反応してしまったのか? まさかお藤が内の息子に一目惚れしたとも思えないし。
 お美代は茶の間に戻ったが、畳の上に『見聞男女録』が裸で置きっ放しになっていた。
(あら、いけない!)
 と、本を奥の間に暫し隠した。

2017年4月1日土曜日

時代劇小説『みこみかる』 二七 井戸(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の同心池田重太郎とお美代夫婦の一人息子、深一郎は奉行所での宿直を終えて、我が家へと帰って来た。と、丁度、井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。裾から覗く、白い肌に吃驚仰天した深一郎は思わずその場から逃げ出したのであった。


     二十七 井戸(二)

 同じ頃、と言っても少し時を遡(さかのぼ)るが……お美代は茶の間で『見聞男女録』の続きを読んでいた。
 話は移って、二段目の『山菜取りの少女(をとめ)』。
 憂ひの君は寺に上がり、日々加持を受けて過ごす。やがて、体の具合も良くなると、聖の勧めもあって、散策へと出掛ける。
 大きな川に沿って、上流に進んで行くと、左手の山から煙が立ち昇っていた。炭を焼く煙かと、興味を抱いた君は、その山へと向きを変える。
 山からは小川が流れ出ており、それに沿って進んで行くと、都では盛りを過ぎた藤の花が、此処では丁度開花の頃で、色付き始めていた。
 山藤の群生は更に上流へと続いており、君は馬から降りて歩いて見て回る。煙の事など疾(と)うに忘れていた。山藤の美しさに惹(ひ)かれて奥へ奥へと進むと、一際大きな房が目に留まった。
 その下では、賤(しず)の女(め)が一人で菜を摘んでいた。
(う~ん、山藤ねえ。確かにこれは不味いかも。里の娘とお藤が何だか被ってしまうし……)
 お美代は口絵を眺めながら頷いた。
 口絵には、木陰から覗き見する君と、菜を取るのに夢中な娘。周りには、山藤の花が沢山描き込まれていた。
 憂いの君が、お藤に懸想しようとした男に見えて仕方がない。きっとこのような状況だったのだろう。
(夫の言う通り、お藤には見せないようにしないと……)
 と、其処(そこ)へ、突然、
「○▽ん、☓■ひゃー」
 と、訳の分からない男の奇声が屋敷中に響き渡った。
(何事? 外のようだけど……ん! まさか、例の縁談相手の男がお藤の居所を掴んで乗り込んで来たかー?)
 お美代は傍に置いてあった孫の手を掴んだ。意を決し、障子を開けて台所に出てみると……お藤が血相を変えて土間に入って来た。
「どうしたの? 今の声は何?」
「はい。深一郎様だと思うんですけど。男の方が裏に回られて来て。間違えましたと言って、直ぐに外に出て行かれて……」
 お藤の瞳が、もうこれ以上無理というぐらい見開いていた。こんなに大きな目を持った娘は江戸市中にも居やしまい。見た事ないけど、大奥にも。もしかしたら、日の本一なんじゃないかと……
「嗚呼、ちょっと待ってて。見て来るから」
 お美代は急いで玄関に行ってみたが、誰の姿も無かった。

2017年3月30日木曜日

時代劇小説『みこもかる』 二六 井戸

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は新しく来た下女のお藤に家の中を案内する。本箱だらけの離れの書斎を出て、台所まで戻ると、野菜売りの留吉がやって来る。お藤の美貌に留吉はもうメロメロ。さて、お美代はお藤と一緒に茄子の品選びをするのだが、お藤の着古した小袖がふと目に入り、思わず嘆息するのであった。


     二十六 井戸

 池田重太郎とお美代夫婦の一粒種、深一郎は父と同じく北の御番所に勤めていた。
 つい最近、同心見習いから同心並に目出度(めでた)く昇進したのだが、と言っても、やる事が急に変わるという訳でもない。上がつっかえているんで、これといった役目には着けずに、結局、未だ雑用全般をこなす身なのだが……
 さて、昨晩は宿直で御番所に泊まり込み。先程漸く御役御免で解放されて、真っ直ぐ八丁堀の我が家に向っていた。
 秋も終わりに近いというのに、朝の日差しが真夏のそれのように、やけに眩(まぶ)しかった。
 目を顰(しか)めながら、自分の家の真ん前で、
「はぁ~」
 と、一つ大きな欠伸をした。
 門を抜けて、玄関に向ったが……裏の水口の方に人の気配を感じた。大方、母が自分で洗濯でもしているのだろう。
(そうそう。一つ、二つ伝えて置かなければいけない事が有る。声を掛けておくか)
 と、深一郎はそのまま裏へと回った。
 ぴちゃぴちゃと、水の音が聞こえて来た。
(嗚呼、やっぱりそうだ。洗濯してる)
 もしかして長助かとも思いもしたが、
「ふん、ふん、ふん~」
 と、母の、軽妙な鼻歌が漏れ聞こえる。
(何だ! 朝から随分と機嫌が良いな)
「母上。只今、」
 と、何のけなしに言い掛けたが……全然知らない娘が、裾(すそ)をたくし上げて、洗濯物を足踏みしていた。豪(えら)く大きな目の持ち主で、こちらをぎょろりと見て取り、大いに射貫かれたが、それよりも、膝の辺りの白い肌が諸(もろ)見えしていた。
 深一郎はもうすっかり気が動転してしまい、口がパクパク、
「す、済みません。間違えましたーっ!」
 と、その場から一目散に逃げ出し、表の道に飛び出した。

2017年3月29日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 二五 離れ(三)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は新しく来た下女のお藤に家の中を案内して回る。離れには亡くなった先代の蔵書が残されているのだが、部屋中本箱だらけで……お藤も面食らったようであった。


     二十五 離れ(三)

 台所に戻って来ると、
「お早うございます!」
 と、野菜売りの留吉が戸口に顔を出した。案の定、お藤を一目見るなり、吃驚仰天。
「あら、お早う」
「あぁ、どうもお早ぅ……あ~! 新しい子ですかいっ?」
「そうよ。お藤というのよ」
 と、お美代は得意げに答えた。
「初めまして。藤と申します」
「嗚呼、こりゃどうも。野菜売りの留吉と申します」
 留吉は頭を上げた後も、お藤をがん見していた。
「お野菜、今日は何がお勧めかしら?」
「嗚呼、はい。茄子です、奥様」
「じゃあ、見せてもらおうかしら?」
「へい、どうぞ」
 お美代はお藤と一緒に、手に籠を抱えて、外に置いてある天秤棒の前に屈み込んだ。
「立派な茄子ね」
「へい。向島の寺島茄子ですよ。取り立て新鮮。見て下さい。この綺麗な色」
 留吉の声も一段と弾んでいた。
「いつものように、七掛け二、一四本でいいですかい?」
「ええ」
「どれにいたしましょう?」
「う~ん、そうねぃ……」
 いつもの掛け合い。結局、留吉が全部選んでくれるのが常だが……お藤が前のめりになって、天秤棒の籠の茄子を眺めていた。
「お藤ちゃん、選ぶかい?」
 はっ、とお藤は頭を引っ込めた。どうやら百姓の娘の血が騒いだらしい。
「いいわよ、選んで。さあ」
 お美代が促すと、
「はい」
 と、お藤は籠から念入りに一本一本を選び出していった。
「嗚呼、商売上がったりだ。良い奴ばかり選んでくぅー」
「あっ、ご免なさい」
「いやいや、冗談冗談。お藤ちゃん、見る目があるねぇ」
 留吉が片目を瞑(つぶ)ってみせると、お藤は初々しく笑みを返した。
「ははっ。さあさあ、選んだ選んだ!」
 お美代は傍で、楽しそうに残りの茄子を選ぶお藤の姿を眺めていたが……ふと、お藤の小袖が随分と着古しているのが、陽の下に居る所為か、或いは茄子の鮮やかな紫色の所為か、目に付いた。下女なら極当たり前の格好なのだが、お藤なら、空のような澄んだ明るい色や、紅葉のような艶やかな色もどんなに似合うだろうと想像した。自分の娘なら直ぐにでも新調してやれるのにとも。

2017年3月2日木曜日

時代劇小説『みこもかる』 二四 離れ(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み始める。貴人が病を癒すために高名な聖の元に向かうという出だしであったが……昨晩来た下女のお藤に家の中を案内する為、読むのを一時中止。家の中をぐるっと回って、最後残るは離れの部屋。亡くなった先代が書斎に使っていたのだが、部屋中に本箱だらけであった。


     二四 離れ(二)

「雨戸を開けましょうね」
 と、お美代は自ら取り掛かった。
 部屋の中に陽が差し込み、ぱっと明るくなった。
「箱の中身は全部本なのよ」
(さて、どんな顔をするかしら?)
 本箱の数も相当なものだが、その中に収められている本も全部合わせると軽く千を超えてしまう。今まで内に奉公に来た子は例外なく皆、この部屋に案内すると目を丸くして驚くのが常であった。当然お藤もそうなるものと期待して、お美代は顔を覗き込んだが……猫のような大きな目は然程(さほど)見開いておらず。
(あれれ。そんなに驚いていないの?) 
 お美代は拍子抜けしつつ、言葉を継いだ。
「この部屋の本は堅苦しいのだったり、変なのばっかりでね。家の者は誰も見向きもしないから、夏の虫干し以外は、開かずの間みたいになっているのよ」
「……」
「今日みたいな天気が良い日には、こうして外の風を入れてあげてね」
「……」
 お藤は聞こえていないのか、ぼーっと佇(たたず)んでいた。
「お藤!」
「あっ、はい」
 お美代が顔を覗き込んで呼び掛けると、漸く、お藤は我に返った。
(ははっ。やっぱり驚いているみたい。当然よね)
「掃除もこの部屋は毎日しなくていいから。偶でいいわよ」
「はい」
「日が傾いたら、適当な時に雨戸を閉めちゃってね」
「はい」
 部屋を後にしながら、お美代は両手をパチンと鳴らした。
「嗚呼、そうそう。言い忘れていたわ。内は主人の御役目柄、相談事や頼み事に訪れるお客様が多いの。玄関で私が話を聞く場合もあるし、茶の間に通して話を聞く場合もあるし。その時々なのよ」
「はい」
「お茶も、私が頼んだ時だけ、お出しすればいいから」
「はい」
「それと、もう一つ……聞いているかしら?」
 と、お美代は今一度、お藤の顔を覗き込んだ。
「あぁ……旦那様の身内の方」
「そう。内の人のお姉さん。たまに来るけど、少し性格がきつめだから、用心してね」
「はい」
 と、お藤は雛鳥のように小さく頷いた。

2017年3月1日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 二三 離れ

【前回の『みこもかる』は?】朝の調べ番屋。北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、同僚の吉井を相手に会話を交わす。話題は池田家の新しい下女お藤についてだが……その美貌に一人息子の深一郎が骨抜きにされたのではと、吉井が茶々を入れてきたが、生憎深一郎は昨晩宿直で、まだお藤とは顔を合わせていなかった。


     二三 離れ

 お美代は針仕事なんかそっちのけで……『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。
(さ~て。先ずは前付の序か。ふむふむ)
 京都在住の、鄙良香(ひなのりょうか)なる人物は芝居見物の際、立ち寄った古本屋で一冊の備忘録を見つける。備忘録には幾つかの歌物語が書き留められていた。その内の一つ『花の下の乙女』という話は実に良く出来ているので、この話だけを取り出して、新たに一冊の本に纏(まと)めたのが本書である云々(うんぬん)と書かれていた。
(お決まりの筆者紹介ね。どうせ出鱈目(でたらめ)だろうけど)
 さて、一段目は『宇治の眺め』。此処からがいよいよ物語の始まり。
 瘧(わらい)病を患った貴人は治療を受ける為、高名な聖の元へ赴く。その途上、宇治で中宿りをする。翌朝出立するが、此処で一句。
『橘の小島の春は色ふれど 今偲ぶるは雪の足跡』
 晩春の宇治の風景を眺めながら、女の所に通っていた冬の頃を懐かしむという歌を詠む。どうやら貴人は恋に破れた後で、病もそれが原因らしい。
 と、此処で、筆者が再登場。本人にとってこの事実が世に伝わるのはさぞかし不名誉であろう。故に貴人の名も官名も一切伏せる。以後は『憂(うれ)ひ君』と呼ぶ云々とある。
(『源氏物語』の『光る君』に比べたら、ぱっとしないわね。しかし、この辺りの駆け出しは『若紫』の話っぽくて、若い娘の読者が飛び付くのも頷けるわ)
 と、此処まで読んだところで、
「奥様、食べ終わりました」
 と、お藤が声を掛けてきた。
 お美代は着物の下に本を隠すと、立ち上がって障子を開けた。
「一度、一緒に家の中を見て回りましょうか?」
 茶の間から右回りに、奥の間、仏間、息子の部屋。玄関を挟んで、脇に雪隠(せっちん)、次郎達の部屋。お藤の僅か二畳の女部屋は飛ばして。台所と土間、風呂場、もう一つ雪隠。
 と、此処まで来た所で、お美代は立ち止まった。
「この先の部屋にはまだ行っていないわよね?」
「はい」
「離れなんだけど、先代のお義父様が書斎に使われていた部屋でね。亡くなられた後も、ずっとそのままにしてあるのよ」
 廊下を進んで部屋の前まで来ると、お美代は一度お藤の顔を見てから、少し勿体振る様にして戸を開けた。
 部屋は雨戸が閉め切ったままで、土蔵の中のような暗さであり……いや、寧ろ部屋そのものは土蔵のような有様であった。部屋を埋め尽くさんばかりに、箱が幾つも重なって置いてあり、凡そ書斎というものには見えなかった。

2017年2月27日月曜日

時代劇小説『みこもかる』 二二 調べ番屋

【前回の『みこもかる』は?】夫重太郎が捕らえた潜りの貸本屋の艶本の中に紛れていた公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』。何でも、若い娘の間で人気とかで、昨晩、夫は寝ずに読み明かしたのだが……翌朝、妻のお美代は夫から本を借り受けると、針仕事は放ったらかしにして読み始めた。


     二二 調べ番屋

 季節柄か、調べ番屋の腰高障子は締め切られていた。
 供回りの三人の中で一番下っ端の長助は全く気が利かず……次郎が先回りして障子を開けた。
 重太郎が中に足を踏み入れると、いつも出足の遅い吉井が珍しく先に来ていた。
「遅いぞ」
「お前が早い」
 二人で掛け合いをしていると、
「池田さん、御早う御座います」
 と、昨日は姿が見えなかった山本が声を掛けてきた。自分や吉井とは一回り年の違う、若い定町廻り同心である。
「おっ」
 と重太郎が返事をしていると……吉井が横から口を挟んだ。
「ふっ。何だ、その目は? 隈(くま)が出来てるぞ。昨晩遅くまで艶本を読み耽ったか? それとも、お美代殿で試してみたのか?」
 吉井の吐いた言葉のどぎつさに、その場に居合わせた者達も流石に笑うに笑えず。
 周りに人が居なければ小突いてやる所だが……重太郎はそのまま框に腰を下ろした。
「あはははっ!」
 と、吉井の馬鹿笑いだけが土間に鳴り響いた。
「悪い、悪い。少々ふざけ過ぎた」
 吉井は右の掌を立てて謝ると、
「所で、どうだった、お藤は? お美代殿は気に入られたか?」
「ん、まあな。大丈夫だろう」
「おお、そうか。それは良かった……しかし、惜しい事をした」
「何が?」
「後で気が付いたんだが。俺ん所のおふさをそっちに回して、お藤を内に入れれば良かったんだな」
「今更遅い」
「交換しよう」
「断る」
「嗚~呼っ」
 と、吉井は残念そうに体を反らした。
「あっ、深一郎はどうだった? もう骨抜きにされたか?」
「深一郎は昨晩宿直で居なかった」
「何だ、まだ会っていないのか?」
 吉井は膝を叩いて残念がったが、
「ん、丁度今帰って来る頃合いか? よし、ちと覗きに行くか! 面白いぞ、きっと」
「旦那、どうぞ」
 と、吾作が茶を持って来て、吉井の戯言を遮った。
「おっ、済まんな。て、あちち」
 吉井が言った、骨抜き云々というのは正しくそうであった。
 お藤に懸想した例の男と同様、息子の深一郎も心を奪われるに疑いなかった。だが一方、息子はかなりの不粋者なので、お藤を目の前にしたら陸に口も聞けぬだろう。その男のような不義理な真似はしないとの信用もあり、要らぬ心配かと思われた。

2017年2月26日日曜日

時代劇小説『みこもかる』 二一 奥の間

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎宅では、下女のお藤を雇い入れて、初めての朝を迎えていた。その働き振りには、妻のお美代も満足気だが……裏の水口にやって来る下っ引きや振り売りが一人残らず、お藤に逆上(のぼ)せていく様は圧巻で……呆れつつも、女はやはり顔だと自問自答した。


     二一 奥の間

 そろそろ朝五つ。夫、重太郎が家を出る時刻で……お美代は着替えを手伝っていた。夫の背後に回って羽織を着せていたが、傍に置いてある包みが気になって、ついそちらに目が行く。
 昨晩、夫は『見聞男女録(けんもんをとめろく)』なる公家物の御伽草子を読み耽っていたのだが……奥の間を見渡しても、何処にも置いていない。という事は、やはり、一晩で読み終えたという事か。で、今はあの包みの中……
「読みたいか?」
「えっ?」
「読みたいなら、読んでもいいぞ」
「宜しいのですか?」
「ああ。だが、一応証拠の物(ぶつ)だからな。いつまでも戻さないのは不味い。読むなら今日か明日中にでも読んでしまえ」
「はい」
 と、お美代は浮き浮きしながら、刀掛けの小刀を取った。
「あー、お藤の目には触れないようにした方がいいかもな」
「えっ、何故です?」
「一応男女の恋の話だからな。前の奉公先で、ああいう事があったばかりだから……変に思い出して、気を揉んだりするかもしれん」
「嗚呼、そうですね」
「今はとても読む気分じゃないだろう」
「はい。分かりました」
 夫を見送りに玄関に出ると……くっちゃべって和んでいた次郎達が口を閉じて、すっと立ち竦んだ。
「行ってらっしゃいませ」
「うむ」
 夫達の姿が見えなくなると、お美代は台所に顔を出した。
 お藤は丁度お茶碗にご飯をお替りしようとしている所で……目が合うと、お藤はしゃもじを引っ込めて、お櫃(ひつ)の蓋(ふた)を閉めようとした。
「嗚呼、直ぐに用事がある訳じゃないから。いいのよ。遠慮しないで、好きなだけ食べなさい」
「はい」
「急がなくていいから。ゆっくりでいいわよ」
 お美代は障子を一つ隔てた茶の間に行くや、着物や裁縫道具を広げて、如何にも針仕事をしているように偽装した。そして、奥から『見聞男女録』を持って来ると、こっそり読み始めた。

2017年2月21日火曜日

時代劇小説『みこもかる』 二十 台所

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎宅では、信州出のお藤を下女として雇い入れたものだが……前の奉公先を辞めた経緯にしろ、郷での複雑過ぎる家庭環境にしろ、色々事情が目白押しで……妻のお美代は床に就いたのだが、それらが気になり、中々寝付けなかった。


  第二章

     二十 台所

「ふぁ~」
 と、お美代は大きな欠伸が出てしまい、咄嗟(とっさ)に口を押さえた。
 竈(かまど)の火の具合を見ていたお藤と目が合ったが……控えめな笑みが帰って来た。何とも可愛げで、女の自分でも思わずきゅんとしてしまう。
 我が家は定町廻り同心という御役目上、朝から訪問者が多かった。夫が手札を与えている御用聞きは二十人近く居る。それらが使いとして寄越す下っ引きが、毎朝四、五人とやって来る。更に、納豆売り、豆腐売り、蜆(しじみ)売りといった振り売りを加えると、朝から十人以上の男達が入れ代わり立ち代りに裏の水口に顔を出すのだが……それらがお藤を一目見るなり、次々と骨抜きにされていく様は将に圧巻で、女はやっぱり顔だとつくづく納得させられた。
 お藤と二人、朝餉(あさげ)の支度に追われていたが……またもや、外から足音が聞えて来た。
「お早う御座います」
 戸口に顔を出したのは髪結の十三だった。
「あら、十さん。お早う」
「あっ……」
 と、十三も早速お藤に目を惹かれていたが、他の男達のように口を開きっ放しにするような、だらしない真似はしなかった。
「奥様、代わりに来た子ですか?」
「ええ。お藤というの」
 と、お美代は顔だけそちらに向けて返事をしたが、
「初めまして。藤と申します」
 お藤は手を止めて、きちんと挨拶をした。
「こちらこそ初めまして。十三と申します」
「嗚呼、今最後の一人ですから、どうぞお座りになって」
 夫は使いの下っ引きと、縁側でまだ話の最中だった。
 十三は髪結の道具が入った台箱を置いて、板間に腰掛けた。
「うん……綺麗な肌をしている。おふぢさんは秋田の出かな?」
「いえ、信州の松代です」
「ほう。真田様の御領地」
「はい」
「それはまた遠い所から……」
 秋田というのは褒め言葉で、てっきり江戸近郊の村の出と思っていたのだろう。
「桶を取って来ます」
 と、お藤が台所を離れた。
「可愛い娘さんですね」
「ええ、まぁ」
 そんな会話を交わしていると、入れ代わりに
「奥様、終わりました!」
 と、下っ引きが土間に顔を出した。
「あら、御苦労様」
「へい」
 と、下っ引きは答えつつ、お藤の姿が見当たらないので、残念そうな顔を垣間見せた。
「それじゃあ、あっしはこれで失礼します」
 仕方なしに帰ろうとしたが……お藤が桶を手に戻って来た。
「嗚呼っ、お茶、ご馳走さまでした!」
「いいえ」
「それじゃ、どうも」
 下っ引きは最後にお藤と言葉を交わせる事が出来て、満足そうに帰って行った。
「よいしょと。さぁ、一仕事」
 と、十三が立ち上がった。
 お藤が桶に湯を注ぐと、ふわっと白い湯煙が立ち上った。
 お美代はその様をちらり見しながら、感心感心と頷いた。

2017年1月24日火曜日

時代劇小説『みこもかる』 十九 行灯(あんどん)(三)

【前回の『みこもかる』は?】新しい下女お藤を迎えた八丁堀の池田宅……の奥の間。夫の重太郎は、お藤の身の上話を語り終えると、再び『見聞男女録(けんもんをとめろく)』という公家物の御伽草子を読み耽る。一方、妻のお美代は先に寝ようとしたが……夫が突然、お藤についてまだ話してない事があるとか言い出してきた。


     十九 行灯(あんどん)(三)

「実家とは、不仲なんだそうだ」 
「不仲?」
 と、お美代は堪らず目を開けた。
「んん……」
 と、重太郎が幾らか首を傾(かし)げた。
「事情がちと込み入っていてな。実の父親はお藤がまだ小さい時に亡くなって。で、代わりに父親の弟が呼び戻されて。嫂(あによめ)と一緒になって、家を継いだそうだ」
(ふむふむ。今の父親は実の叔父さんって事ね)
「だが、その後、直ぐに母親の方も亡くなって。今度はその弟が後妻を貰ったんだ」
(何となく分かってきました。継子苛(ままこいじ)めというやつですね)
「最初の頃は仲良くやっていたそうだが。弟夫婦に子供が……女の子が生まれて」
(形は妹だけど、本当は従妹ね)
「そしたら、弟夫婦は実の子を可愛がり、段々とお藤を邪険にするようになっていって……あっ、本人が言ったんじゃないぞ。半次郎がそう話したんだ」
(はい、はい)
「で、お藤の亡くなった母親の実家の兄夫婦がそれを不憫に思い、お藤を自分の所に引き取ったんだ」
(あらら。結局、自分の家を追い出されたの?)
「請状に書いてあった茂平というのが、その引き取った兄だ」
「ん? 請人の半次郎さんと幼馴染というのは、その茂平さんの方ですか?」
「ああ、そうだ。茂平は育ての親、今の父親という意味でな」
(ややこしいわね。実の両親に、その弟夫婦、更に母親の実家の兄夫婦って、三組も両親が居たんじゃ、どれがどれだか)
「そちらのお兄さんの……茂平さんの方に子供は?」
「二人居るそうだ。年で言えば、一番上に跡取り息子が居て。お藤が丁度真ん中で、その下に娘が一人。前ん所とは違って、その家族とは仲が至極良好だったそうだ」
(ふ~ん。どの道、伯父さんの所は出なければいけなかったのね)
「江戸に出て来たのには、家の事情か何か、訳が有るんですか?」
「本人が江戸に出たいと言ったそうだ」
「家計を助けるとか、借金とかではなく?」
「ああ。本人がそう望むもんでな。兄夫婦もお藤の好きにさせてやったそうだ」
「……」
 (単なる憧れ? それとも、やっぱり、名主の息子か村の若い衆で嫌な男が居て、身の危険を感じて遥々江戸まで逃げて来た?)
 とか、お美代が独りで勝手に想像していると、 
「そういう事で、話は以上だ。もう寝ていいぞ」
 と、夫は本に見入りながら、宣(のたま)った
 お美代は夜着に潜り込み目を瞑ったが……なかなか寝付けなかった。

2017年1月23日月曜日

時代劇小説『みこもかる』 十八 行灯(あんどん)(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田宅。夜半、夫重太郎が待つ奥の間に下がったお美代であったが……夫は本を読み耽っていた。捕まえると言っていた潜りの貸本屋の艶本だと勘ぐった。本の題名からして、『見聞男女録(けんもんをとめろく)』という如何にもという感じであったが……実際は、里の娘とお公家さんの、極真面目な恋愛話話のようであった。


     十八 行灯(あんどん)(二)
「ん!」
 と、夫が手を差し出したので……お美代は本を返した。
「安五郎が言っていた潜りの貸本屋。今日挙げて、艶本がごっそり出て来たんだが……肝心の、若い娘に貸していたというのは艶本じゃなくて、こっちのまとな本だったという訳でな。何でも娘っ子達に豪い人気で。皆、挙(こぞ)って借りているんそうだ」
(ふ~ん……って、そんなの読んでたの?)
「どんなお話ですの?」
「うん。参籠(さんろう)に行った貴人が近くを散策している折、里の娘に一目惚れしてな。自分はさる御方の供人だと身分を偽って。窶(やつ)した格好で娘に近づくんだ」
(玉の輿(こし)のお話か)
「二人は恋仲になるんだが」
(だが?)
「娘に思いを寄せる山賤なんかも出て来たりして」
「やまがつ?」
「樵(きこり)とか猟師の事だ」
「嗚呼ーっ、はいはい」
(恋敵の登場という訳ね)
「それで、どうなるのです?」
「それから先は」
(先は?)
「今からだ」
 と、夫は本に視線を戻した。どうやら最後まで読み通すつもりらしく……結局、肩透かしを食らった。基(もとい)、自分の独り合点(がてん)だと分かり、
「先に休みますよ」
「あぁ……」
 と、夫は気の無い返事。
 お美代は目を瞑(つぶ)り、さっさと寝ようとしたのだが、
「お美代」
「……」
「寝たか?」
「起きてますよ」
「ああ……お藤の事なんだがな」
「はい?」
「言い忘れていた事があってな」
(はぁ?)
「うーん……」
「何です?」
 と、お美代は聞き返した。

2017年1月20日金曜日

時代劇小説『みこもかる』 十七 行灯(あんどん)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田家は新しい下女お藤を迎えた。御供の次郎達と直ぐに打ち解けて、台所で大変賑やかそうにしていた……さて、茶の間では、夕餉を済ませた夫重太郎が、もう寝るから布団を敷いてくれと頼んで来た。お美代は、夫が夜伽(よとぎ)を望んでいると解して、心が舞い上がる。


     十七 行灯(あんどん)

「じゃあ、明け六つ前には起きてね」
「はい、分かりました。お休みなさいませ、奥様」
「はい、お休みなさい」
 手燭(てしょく)の灯りに照らし出されたお藤の後ろ姿が、女部屋に消えるのを十二分に見送ってから……お美代は奥の間へ下がった。
(ふふ。ちょっと待たせ過ぎたかしら。まだ寝てないわよね)
 浮ついた気分を落ち着かせようと、一呼吸置いてから、襖を開けてみると……夫は行灯を近くに引き寄せて、本を読んでいた。
 茶箪笥(ちゃだんす)の上の貸本ではないようで、
(はは~ん、さては艶本ね!)
 一昨日の夕方、深川の安五郎親分が家に来たのだが、嫁入り前の娘さんに如何わしい本を貸している奴が居るとか言っていたのを思い出した。
(いやはや。全く、やだわ)
 お美代は昂(たかぶ)る気持ちを気取られないように澄まして、寝間着に着替えて、自分の夜着に潜り込んだ。
 暫し待ったが……何も起きない。声も掛けて来なきゃ、こっちの寝間着に潜り込んでくる気配も無い。そのまま放って置かれた。
(もうっ、意地悪! 何時まで待たせる気なの?)
 横目でちらっと様子を窺ったが……夫は本を読み耽るばかりで。こちらの女体には興味が無いのか?
 お美代は遂に頭に来て、
「何をそんなに熱心に読んでいるのです?」
 と、噛み付いた。
 夫はひょいっと表紙を見せてくれた。
「『けんぶんだんじょろく』?」
「『けんもんをとめろく』と読むそうだ」
(『見聞男女録』ねえ。如何にもっていう題だわ)
 穴が開くように、じっと本の表紙を見ていると、
「違うぞ、ほら」
 と、夫は本を渡して寄越した。
 ぺらぺらと捲ってみると、
「んん?」
 期待していた男女が……という類ではなく。全く持って艶本ではなかった。
 少しお硬い感じで、口絵も大和絵風の……山菜採りをしている里の娘と、それを木陰からこっそり覗き込んでいるお公家さんが描かれていた。

2017年1月18日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 十六 夕餉

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田宅の奥の間。お美代は夫重太郎から、新しく来た下女お藤の身の上を聞かされる。前の奉公先でのゴタゴタ、信州松代の出、紹介者が吉井である等々……さて、話が終わって、お美代が台所に出てみると、お藤は次郎達とすっかり打ち解けているようだった。


     十六 夕餉

 早速二人で、六人分の膳の用意に取り掛かったが……お藤は手慣れたもので、てきぱきと動いてくれるので、正直これは楽だと。おまけに一緒に居て心地が良かった。顔があれで、大いに問題があるのが唯一の欠点であり、頭を悩ませる所だが、如何ともし難く。
 さて、その後、夫と二人、茶の間で静かに食していたが……障子の向こうは大変賑やかであった。次郎や長助は兎も角、普段口数の少ない卯助までが会話に加わっていた。お藤は専ら聞き役に徹しているようで、男達の饒舌が途切れる事無く、洩れ聞こえていたが……ふと見ると、夫が徳利を逆さにして振っていた。
「もう一本浸けさせますか?」
「ん……」
「お藤!」
「はい」
 と、お藤が障子を開けて入って来たが、
「あっ、いい」
 と、夫は手を振って止めた。
「宜しいのですか?」
「ああ」
(あら、珍しい)
「お藤、下がっていいわよ」
「はい」
 と、お藤は障子を閉めて、台所へと戻って行った。
「もう横になるから、布団を敷いてくれ」
「お気分でも冴えないのですか?」
「いや、大丈夫だ」
(お疲れで眠いのかしら?)
 お美代は奥の間に行って布団を敷いていたが、
(あら、やだ。もしかして、誘ってる?)
 なんて、思いを馳せた。
 お美代は平静を装いつつ、茶の間へ戻った。
「敷きましたよ」
「おっ」
 夫は奥の間へと下がって行ったが……直ぐに後を追うなんて事は流石に出来ず。お藤と二人で、夕餉の後片付けや明日の朝餉の下準備を済ませた。
 次郎達が順番に風呂に入っていたが、まだ空きそうにない。茶箪笥の上に置いてある数冊の貸本を指し示し、
「長助が上がるまで、本でも読んで待ってて」
 と、お藤に声を掛けると、お美代自身は茶の間に戻って、縫い物で時を潰した。
 長助が風呂から上がって、お藤が残り湯に浸かっている間、お美代はもうそわそわのしっ放し。漸く、
「奥様、湯を頂きました」
 と、お藤が風呂から上がって来た。
 まだ夜五つ前だったが、
「今日は疲れたでしょう。ちょっと早いけど、もう休みましょうか」
 と、お美代は如何にもというような台詞を吐いた。

2017年1月17日火曜日

時代劇小説『みこもかる』 十五 奥の間(二)


     十五 奥の間(二)

「この松島町の、大和屋さんって何のお店ですの?」
「酒屋だ、酒屋。結構繁盛している大きな店だ」
(ふ~ん、酒屋かあ。じゃあ飲み放題って訳ね。酒樽に囲まれて、隠れて一杯ひっく、なんてね)
 冗談はさておき、お美代は請状に視線を戻した。
「この請人の半次郎さんというのは?」
「藍商の信濃屋で番頭をしている男だ」
 と、重太郎が腕組みしながら、答えた。
「お藤の父親とは幼馴染で、こっちに出て来る時に請人を引き受けたそうだ。半次郎本人とも、さっき、宿で顔を合わせてきた」
「信濃屋さんのお世話になる事は出来なかったんですか?」
「うん。それは俺も聞いたんだが、無理だと言われた」
「無理って、どうしてです?」
「信濃屋の主人は女癖が悪いそうだ。以前に下女を孕ませたらしい」
「……」
「どうする? 気が進まないのなら、話は無しって事にするか?」
(無しって、そんな。連れて来といて……)
「まだ、飯も食べさせていないし。今ならまだ宿に送り返せるぞ」
 もう灯りが要る程に部屋内は暗く……置いたら置いたで起こるであろう面倒な事と、一度はこういう子を手元に置いてみたい、今手放したら二度とそういう機会は訪れまいとの願望が鬩(せめ)ぎ合い……結局、
「別にいいですよ。今更追い返すなんて、出来ないでしょう」
「おお、そうか。済まんな」
「いいえ」
「嗚呼、それから吉井とは一応半期だけという約束になっているからな」
「半期だけ?」
「ああ。俺がごねたら、半期だけでも面倒を見てくれと、吉井が頭を下げてきたんで、貸しを作った事にしてある」
「大きな顔をしていろと?」
「ああ、そうだ。今度会ったら、思いっきり睨み付けてやれ」
(ふー、やれやれ)
 お美代が鼻息を吐いていると、
「さて、風呂に入るか」
 と、夫は着替えを持って、さっさと出て行った。
 お美代も部屋を出たが……台所の方から盛んに次郎達の話し声が聞こえてきた。顔を出してみると、
「あっ、奥様。今、お藤ちゃんに色々と教えていたんですよ」
 と、次郎が振り返った。
 お美代はお藤の様子を覗ったが……既に前垂れを身に纏(まと)い、襷(たづき)を掛けて準備万端。表情はまだ少し硬めで、それがまた、いじらしく思えた。

2017年1月14日土曜日

時代劇小説『みこもかる』 十四 奥の間

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の我が家で、夫の帰りを待つお美代。新しい下女を連れて帰ると言伝を受けていた。さて、夕暮れ時。重太郎が帰宅する。出迎えたお美代は、お藤という名の娘と初対面を交わすが、その並外れた器量の良さに只言葉を失うのみであった。


     十四 奥の間

 お美代は押し黙ったまま、狐に抓まれたような心持ちで、夫の後ろを付いていったが……奥の間へ入った途端、待ってましたと言わんばかりに、夫が口を開いた。
「どうだ、驚いたか?」
「ええ、まぁ」
(そりゃあ驚きますよ。あんなに大きな目をしているんですもの)
「吉井に任せてみたら、これだからな」
「……」
「よく確かめもせず、いい加減な仕事を」
「何か訳有りなんですか?」
「ん?」
「いえ。仕事を探すにも、少し時期がずれていますでしょう?」
「……」
「それに、あの器量ですもの」
「んん……前の奉公先で、ちょっとな」
(嗚呼~。やっぱり、そうですか)
「其処のお嬢さんに縁談の話が来ていたんだが。その相手の男がお藤に色目を使ってな。何かあったという訳じゃないんだが。結局それが元で拗(こじ)れて、縁談がご破算になって。居ずらくなったそうなんだ」
(あらら。主人の怒りを買って、追い出されたのね)
「まあ、お藤は何も悪くないんだがな」
(まぁ、分からないでも無いけど。あれ程可愛ければ、男なら嫌でも目が行くでしょうし。ボンボンとくれば、そりゃあ、手だって出してしまうわね)
「郷は信州だそうだ」
「信州?」
「ああ。信州の松代」
「ええっと……」
「越中とか越後とか、そっちの方が近いな」
「また随分と遠い所から」
「ああ。家は本百姓で……ほれ、これ」
 と、夫は請状を取り出した。
「前の奉公先のだがな」
 ふ~ん、とお美代は目を通した。
(本百姓という事は、家はそこそこの富農だった? で、父親が何かでしくじって、借金でも拵えて、娘を奉公に出す羽目になったのかしら? いや、待って。だったら奉公なんかに出さないで、名主か庄屋の所にでも嫁入りさせればいいじゃない。あれだけの器量なら、引く手数多なのは間違いない訳だし。借金を肩代わりしてもらって、晴れて自由の身。んでもって、玉の輿。双方丸く収まって万々歳じゃない)
 とまぁ、疑問が深まるばかりで……

時代劇小説『みこもかる』 十三 紫の小袖

【前回の『みこもかる』は?】重太郎はお藤と申す新しい下女を迎えに、紹介者の吉井と調べ番屋を後にする。堀留町の宿に着くと、娘の請人の半次郎の出迎えを受ける。さて、いよいよ二階に上がって対面したのだが……お藤は、息も止まる程の器量持ちであった。


     十三 紫の小袖

 お美代は昼八つ過ぎにはもう晩の支度を始めていた。
 息子の深一郎は今日は宿直で帰って来ない。夫と自分、次郎と卯助と長助に、今晩連れて来る下女、合わせて都合六人分を用意せねばならず、猫の手も借りたかった。熟(つくづく)、娘が一人でも居ればと思うのだが、生憎宿した子は深一郎一人きりだった。
 何とかいつも通り昼七つに晩の支度を終えると、今の内にと、お美代はさっと風呂を済ませ……それから半刻後、日も段々と暮れてきた。
(遅いわね~)
 と、お美代がやきもきしていると、
「只今お戻りになりました」
 と、次郎の声がした。
(一体どんな娘を連れてきた事やら。吉井様の紹介だし。桑原、桑原~)
 お美代は不安を抱えながら、玄関に迎えに出た。
「お帰りなさいませ」
「おっ、連れて来たぞ」
 お美代はどれどれと拝見しようとしたが……夫の体が陰となり邪魔をした。紫色の小袖が僅かに覗くだけで。
「ん?」
 と、夫が気付いて、体を退けた。
「おお、恥ずかしがらずに。さあ、前へ、前へ。お美代、紹介する。お藤だ」
(へっ?)
「さあ、挨拶をして」
「初めまして、奥様。藤と申します」
「……」
 地味めの小袖とは打って変わった、その希に見る容貌に、お美代は驚いて言葉を失った。その二つの、大きな目に吸い込まれそうに……
「お美代!」
「はいっ」
 と、お美代は我に返ったが……娘の名が何だったのか、出て来なかった。
「嗚呼、えーと」
「お藤だ」
「お藤。お藤ね、はいはい。初めまして」
 と、お美代は調子を合わせていたが、ふと、次郎や卯助達の背後から、長助が覗き込んでいるのが目に入った。
 次郎が気付いて、
「何だお前は、そんな所で。風呂は焚けているのか?」
「あっ。はい、焚けてます」
「おっ、長助」
 と、夫が声を掛けた。
「今日から内に入るお藤だ」
「嗚呼、どうも……」
「始めまして、長助さん」
 と、お藤が丁寧に頭を下げた。
 長助は顔が真っ赤で、普段なら次郎が突っ込みそうな所だが、見てる方が面白いのか何も言わなかった。
「さて、一風呂浴びるか」
「ああ、次郎。お藤を裏から入れてあげて。それと部屋にも案内してね」
「はい、奥様。お藤ちゃん、こっちへ」
 と、裏に回って行くのを、お美代は頻りに首を伸ばして目で追ったが、 
「ほれ」
 と、夫が大刀を目の前に差し出して遮った。

時代劇小説『みこもかる』 十二 堀留町

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田家の屋敷前で、小者の長助が掃き掃除をしていると、兄貴分の次郎が戻って来た。吉井の紹介で、新しい下女を見つけたという夫重太郎の言伝に、お美代は内心に呆れている様子だった。


     十二 堀留町

 重太郎は佐賀町から引き上げた。
 途中で早めの昼飯を取ってから、調べ番屋に戻って、朝に出来なかった口書に取り掛かった。当然、昼から行くはずだった廻りは取り止めに。
 陽の傾き始めた昼七つ、廻りを終えた吉井が調べ番屋にやって来た。
「何だ、まだ終わらないのか?」
 早く早くと吉井が催促する中、やっとの思いで取調べを終えて、容疑者を牢に戻す。
「おい、終わったぞ」
「おおぅ、待ちかねたぞ。さっ、行こう」
 お互御供を連れて、並んでぞろぞろと歩いて行った。
 吉井は頗(すこぶ)る上機嫌で……こちらは若干鬱気味。娘の泊まっている宿が堀留町で、然程遠くないのがせめてもの救いだった。
「おおぅ。此処だ、此処!」
 吉井が意気込んで中に入って行ったが、人の姿は無かった。
「御免! 誰か居らぬか!」
 白髪交じりの草臥(くたび)れた主人がのそのそと出て来たが、こちらの姿格好を見るなりピンとなった。
「嗚呼、申し訳御座いません。お迎え出来ませんで」
「おう、親仁。信濃屋の半次郎という男と此処で会う事になっているのだが」
「吉井様で御座いますね」
「如何にも」
「はい、確かにお聞きしております。半次郎さんは上でお待ちになられています」
 主人自ら呼びに行くと、半次郎が階段を降りて来た。
「おう! 連れて来たぞ」
「これはどうも、旦那。お待ちしておりました」
「顔は知っていよう?」
「はい、存じています。池田様で御座いますね。半次郎と申します。この度は御足労をお掛けして、誠に申し訳御座いません」
 半次郎の左頬には大きめの目立つ傷があった。古い物みたいだが、やはりどうしても目に付く。これで番頭を任されているという事は、よっぽど仕事が出来るのか。
「ここじゃ何だから、上がるか。おい、親仁。悪いがこいつら、下で待たせてもらうぞ」
 御供は置いてきぼりで……半次郎と吉井に挟まれて、重太郎は階段を上っていった。
 部屋の前で、半次郎が中に声を描けた。
「お藤、開けるよ」
「はい」
 襖の向こうから聞こえたその返事は、妙に艶めかしく、大人びたものだった。歳は十五という話であったが、とてもそうとは思えず。
(うぬぬ。こいつは吉井に一杯喰わされたか?)
 年増の下女を掴まされたと、一人苦虫を潰しつつ……半次郎に続いて中へと足を踏み入れたのだが……目に飛び込んできた娘の姿形は想像したものとは違った。酸いも甘いも未だ知らず、微塵も感じ取れない、まだ少し幼ささえ残したその整った顔立ちに、何より大きな瞳に思わず息が止まった。
 暫くして、重太郎は娘の顔を凝視している自分に気付き、はっと息を飲んで我に返ると、直ぐ様後ろを振り向いた。
 当の吉井は、いやいや、俺もこんな娘だとは知らなかった、本当だ、とでも言いたげに、激しく首を横に振っていた。

時代劇小説『みこもかる』 十一 八丁堀(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田家の屋敷前で、小者の長助は掃き掃除をしていた。其処へ、所、兄貴分の次郎が戻って来る。すわ、事件かと意気込む長助であったが、主の重太郎の言伝を細君のお美代に伝えに来ただけであった。




     十 八丁堀(二)

「はいはい、なあに?」
 と、お美代が台所に出て来た。
「奥様、旦那から言伝を預かってきました」
「あら、何かしら?」
「下女の件なんですが、旦那の方で見つけられたので、三河屋の方は断れとの事です」
「えっ!」
 と、お美代が思いっきり顔を顰(しか)めた。
「吉井の旦那の紹介なんですよ。是非にと頼まれまして」
「嗚呼……なら、仕方ないわね」
「三河屋へは自分が行きます」
「そう。じゃあ、お願いするわ。代わりによく謝って置いてね」
「はい。それと、その新しい下女なんですが。今日、旦那が連れて帰って来る手筈で。帰りは遅くなると」
「あら、そうなの?」
「はい。夕方に吉井の旦那と合流して。それから宿に迎えに行くそうです」
「宿に?」
「はい。ですから、帰るのは暮れ六つ近くになるかもしれないと、そう仰っていました」
「分かったわ」
「では、自分は三河屋に行って、そのまま旦那の所に戻ります」
 次郎が土間を後にしたので、長助もその後ろを付いていった。
「どんな子が入って来るんで? 兄貴、もう会いました?」
「まだ会っちゃいねいよ」
「ふ~ん……あっ、三河屋への使い、あっしが行きましょうか?」
「ふっ。単にさぼりたいだけだろう?」
「あっ、ばれました?」
「当たり前だ。お前は家の仕事でも……」
 と、言い掛けたが……表の道に出ると、
「おい、こらっ!」
 と、次郎の雷が落ちた。
「全部飛んじまってるじゃねぃか!」
 折角集めた落葉が全て風で飛ばされて、向こうの方まで、辺り一面に散らばっていた。
「嗚呼~っ」
「嗚呼じゃねえよ。おめえは結が甘いんだよ。たくっ……しっかりやれよ」
 と、次郎は言い残して、さっさと行ってしまった。
 長助は一からまた落葉を掃き集めた。

2017年1月13日金曜日

時代劇小説『みこもかる』 十 八丁堀

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎の家では現在、下女が不在であった。同輩の吉井が下女を紹介すると言うので、話を聞いたのだが……その、お藤という信州出の娘は、恋愛沙汰で前の奉公先を辞めたとか。更に、次の奉公先を探す際、お藤の請人(保証人)の半次郎と口入屋が喧嘩したとか。何だか面倒臭そうな話なので、重太郎は断ろうとしたが、半期(半年)だけでもと、吉井がしつこく食い下がった。




     十 八丁堀

 長助は屋敷の前の道で掃き掃除をしていた。
 色付いた、集めた葉っぱが山を成し
 とまぁ、そんな情景で、八丁堀の秋も深まりつつあり……
(へへ。後少しで終わり、終わり!)
 早く一休みしたいと、箒(ほうき)を持つ手の動きも早くなり。
 と、其処へ、近所の同心の奥様が包みを手に、こちらに歩いて来た。
「御苦労様」
「お早うございます」
 と、長助は箒を持った手を止め、深く頭を垂れた。
 歳は二十四、五ぐらい。同心の奥様だけあって小奇麗にしている。裏長屋のかかあ連中などとは段違いで、長助は通り過ぎたその後姿をじっと眺めていたが……
「なに鼻の下伸ばしてんだ」
「あっ、次郎の兄貴!」
「手動かせ、手」
「済みません」
 と、長助は頭を掻いていたが、
「ん! もしや、何か有ったんですか? 下手人を追って、手が足りないとか?」
「そんなんじゃない」
 と、次郎に軽く鼻で笑われた。
「言伝しに来ただけだ。奥様は居なさるかい?」
「はい」
 長助は箒を持ったまま、次郎の後を付いて行った。
 裏の水口から台所に入って、
「奥様、次郎です。いらっしゃいますか」
 と、次郎が障子越しに呼び掛けたが、
「……」
 返事が無い。
「寝てるんですかね?」
「しっ!」
 次郎に睨み付けられて、長助は亀の如く首を引っ込めた。
 で、もう一度。
「奥様、次郎です」
「……」
「奥様!」
「……」
「もしかして厠(かわや)とか?」
「お前は黙っていろ」
 次郎は言い放つと、屋敷中に聞こえるように呼び掛けた。
「奥様っ!」
 すると、何やらゴトゴトと物音が聞こえてきて……漸く、茶の間の障子が開いた。

時代劇小説『みこもかる』 九 船宿『土筆』

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、下女を紹介するという吉井の話を聞く為に、船宿『土筆』の一室を借りる。さて、その娘。お藤という名の信州女なのだが、恋愛沙汰に巻き込まれて、前の奉公先を辞めざるを得なくなったとかいう訳有りだった。




     九 船宿『土筆』(二)

 どうやら隠し事有るらしく……重太郎は語気を強めた。
「口を開け!」
「んん……」
 と、吉井は口を噤(つぐ)んだままで。
「おい、何なんだ? 正直に言え!」
「いやぁ、実はなぁ……奉公構えをされちまっててな」
「奉公構え?」
「ああ」
「まさか大和屋が手を回して、嫌がらせをしているのか?」
「いや、違う。その口入屋がだ」
「口入屋が何で?」
「請人の半次郎と揉めてな」
「揉めた?」
「口入屋が要らぬ事を口にしてな。今の時期、下女の口など何処も埋まっているだろう。良い口など早々見付からない。で、半次郎が苛々している所に、妾奉公なら直ぐに見付かりますよ、と口入屋が下らぬ冗談を言っちまいやがったんだ」
 お前が言うかと、重太郎は口に出掛かった。
「半次郎が切れたか?」
「ああ。お前の所には頼まないと啖呵を切ったら、口入屋が意地悪してな。仲間内に手を回して、お藤という娘は奉公先で面倒を起した。主人の娘の縁談相手に色目を使った。請人の男も切れやすい。有る事無い事吹聴して。悪評が立って、半次郎は何処の口入屋も出入り禁止になった」
「そういう噂はあっという間に広がるからな」
「八方塞がりで。人宿には泊まれないから、今は普通の宿で寝泊りしているんだ」
「だったら、川向こうか、千住か品川辺りなら直ぐに口が見付かるんじゃないのか?」
「う~ん。あまり遠い所は……出来れば目の届く近い所が安心だろうし。それに柄の悪い土地はなぁ。その点、お前の所なら安心だろう?」
「ふん」
「なっ。置いてやってくれよ」
「……」
「人助けだと思って」
「……」
「おい、だんまりか?」
「……」
「帰るにも郷の信州は遠いし。奉公先を早く見つけて、金を稼がなければならないのに、宿代で金は減る一方。度重なる不幸で、本人は傷ついている。哀れだと思わんか? 何とかしてやろうという気は、お主には起こらぬのか?」
「……」
「よしっ! じゃあ、取り敢えず半期でどうだ? なっ。使ってみて、それで気に入らなければ、来年の三月に三河屋から新しい娘を入れればいい」
「その後は? お藤とか申すその娘はどうする?」
「俺がまた新しい奉公先を探すさ」
 重太郎は心の中で、ふっ、と吹き出した。
 世話好きにも程がある。何時も余計な事ばかりに首を突っ込んで。こいつは人が良すぎるのか、それとも単に馬鹿なのか? もう何十年という付き合いなのだが、未だに区別が付かなかった。

時代劇小説『みこもかる』 八 船宿『土筆』

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、潜りの貸本屋染七を捕らえて、自身番で取り調べていたのだが……名主の依頼を引き受けて、染七から本を借りていた娘については不問にすると約束する。一方で、同輩の吉井が押し掛けて来て……下女不在の池田家の為に丁度良い娘を見つけて来ただとか、場所を変えて話そうだとか、色々ごちゃごちゃと宣(のたま)うのであった。




     八 船宿『土筆』

 仕方が無いので場所を移した。近くの川縁に在る船宿『土筆(つくし)』の二階の一間を借りたが、生憎部屋は隅田川とは真反対側だった。
「何だ、川が見えないじゃないか!」 
「贅沢を言うな」
「いや。やはり船がこう、行き交う景色を眺めながらだなぁ」
「餓鬼じゃあるまいし。それより下女の話はどうした?」
「おお、そうだ。下女の話だ、下女の話……お主が番屋を出て行った後、とある男が俺を訪ねて来てな。前からの顔見知りの奴なんだが、お願い事が有ります、とこう来た訳だ。頼りにされるのは悪くない。口書の最中だったが、話を聞いてやった」
「おい、前置きが長い。もっと短くしろ」
「そう、急かすな。その男は半次郎と言ってな。人形町通りの、新乗物町の信濃屋で番頭をしているんだが。何でも同郷の娘が一人、下女の口が見付からずに困っている。どうか御力添えを頂けませんか、てな具合で、こいつは将に渡りに船だ」
「おい、それは訳有りだろう。面倒は御免だ。断る!」
「待て待て! こいつがだな、涙無くしては語れない、可哀相な娘なんだ」
「……」
「娘の名はお藤といってな。信州の山奥から遥々江戸に出て来て、松島町の大和屋で……知っているだろう?」
「あの大きな酒屋か?」
「そうだ。大和屋で下女奉公をもう丸二年勤めていたんだが……最近、大和屋の娘に縁談の話が纏まって。結納だ何だとやっている最中に、事もあろうにその縁談相手の男がお藤に手を出そうとしてな。危ない所を家の者に見付かって、お藤の身は無事だったが、肝心の縁談はパーだ」
 と、吉井は諸手を上げた。
「御破算になっちまって。お藤は被害者なんだが、結局大和屋には居られなくなった。それで今は仕方なく宿暮らしをしながら、仕事の口を探しているという訳なんだ」
「その半次郎といのは、お藤の請人か?」
「そうだ」
「なら、信濃屋で面倒見てもらえばいいんじゃないのか? 信濃屋というぐらいだから、家の主人も信州の出なんだろう?」
「……」
「半次郎という男だって番頭なんだから、一人ぐらい雇い入れるように主人に願い出る事ぐらい出来るのではないか?」
「ん~。それがなぁ、駄目なんだ」
「どうして?」
「信濃屋の主人は女にだらしなくてな。過去に下女を孕ませている」
「……」
「そういう訳でな。お前の所で」
「人宿に居るんだろう?」
「ん、あぁ……」
「だったら、口入屋に任せて置けばいい」
「……」
 途端に吉井は黙り込んでしまった。

2017年1月12日木曜日

時代劇小説『みこもかる』 七 自身番(三)

【前回の『みこもかる』は?】佐賀町の自身番で、北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は潜りの貸本屋染七を取り調べていたが、其処へ、名主の四朗右衛門が一冊の本を携えて訪ねて来る。町内の娘が染七から本を借りた事を不問にして欲しいとの依頼であった。差し出された本を手に取ると、てっきり艶本だと思いきや、『見聞男女録』という公家物の御伽草子で……と、其処へ、同輩の吉井が訪ねて来る。現在、池田家では下女が不在の状態なのだが、奉公の口を探している娘を見つけたので、知らせに来たのであった。




     七 自身番(三)

「何だ、こりゃ!」
 吉井は『見聞男女録』を捲りながら、声を上げた。
「艶本ではないではないか?」
 本を突っ返してきたが、奥の板間の左平次と伝蔵が手にしている本をあざとく見付けた。
「何だ、そっちか。上がるぞ」
 と、吉井は衝立をぐるりと回って中に入ろうとしたが、
「吉井様、御役目御苦労様です」
「おっ!」
 四郎右衛門が居るのに驚いて、足を止めた。
「いえいえ……おい、何だ? 取り込み中か?」
「何でしたら、手前は出直しますが」
「いえ。吉井を待たせますので、お気遣い無く」
 重太郎は四郎右衛門を押し留めると、
「これでも読んでいろ」
 と、吉井に艶本を渡した。
 吉井は中で読めばいいものを、態々外に出て、上がり框に腰掛けた。野次馬が見守る中、
「おー、こいつは凄い」
 とか、
「嗚呼~」
 とか一々呻(うめ)き声を発していた。
 馬鹿は放って置いて、重太郎は話を続けた。
「見た所、別に問題は無いと思います」
「そうですか」
「こいつに関しては……借りた者は引合を付けますが、必ず抜くという事でどうでしょう?」
「はい。それで手を打ってもらえれば、手前は結構で御座います」
「安五郎、異存は無いか?」
「へい、有りません」
 引合が付けられたままだと、御番所から差紙が届いて、証人として父娘共々呼び出される羽目になる。もしそうなれば、あそこの娘は艶本を借りていたと変な噂が立ち兼ねない。安五郎親分に包み金を渡して、引合を抜いて貰わないといけない。つまり、裏取引で証人を免除してもらうという按配である。娘の父親は少し多めに払わされるだろう。
「余り欲張るなよ」
「へい。心得ています」
 安五郎に釘を刺して置いて……取り敢えず、四郎右衛門の方は片付いたので、
「おい、話を聞くぞ」
 と、重太郎は吉井に声を掛けた。
「おぉ。何処か他所で……」
 と、吉井は拝むような顔をした。

時代劇小説『みこもかる』 六 自身番(二)

【前回?の『みこもかる』は?】佐賀町の自身番で、北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は潜りの貸本屋染七の取り調べを始める。扱っていたのが艶本というのが科(とが)で……と、其処(そこ)へ、名主の四郎右衛門が訪ねて来る。町内のとある娘が染七から本を借りた事を悔(く)やんでいるとかで、どうやらその事を不問にして欲しいとの依頼らしい。




     六 自身番(二)

「これがその本なんですが……」
 と、四郎右衛門は包みから本を取り出すと、こちら向きにして畳の上に置いた。
 表紙絵の無い青表紙の本で、左上に『見聞男女録』と書かれた題簽(だいせん)が貼られていた。
「けんぶん、だんじょろく?」
 と、安五郎が横から、首を亀のように伸ばして呟いた。
「ふっ」
 と、染七が鼻で笑った。
「何が可笑しい?」
 安五郎が声を抑えて凄んだ。
「けんもんか?」
 と、重太郎は質(ただ)した。染七の表情が幾分か和(やわ)らいだ。
「けんもん……をとめろく?」
「流石(さすが)、八丁堀の旦那。学がお有りだ」
「無駄口叩くな!」
「痛っ」
 助五郎が染七の腰の辺りを小突いた。
 四郎右衛門は眉を顰めながら、続けた。
「えー、男が引っ張られたもんですから、娘も怖くなりまして。父親に打ち明けたんです。それで、父親もどうしたものかと困って、私の所に相談に来たという訳でして……まぁ、たわいもない徒(ただ)の読本だと思うのですが」
(ん、艶本じゃないのか?)
 重太郎は本を手に取ってぱらぱらと捲(めく)ってみたが、男女が肌を露(あらわ)にするような絵は皆無であった。公家物の御伽草子といった感じで、文にしても口絵にしても至極真面目で、父娘が心配しなければいけないような代物ではなかった。
「どうでしょう? 問題ありませんよね?」
 と、四郎右衛門が身を屈(かが)めた。
 すると、
「おおっ、通せ通せ!」
 また誰か来たようで、すっと障子が開いた。
「おおぅ、居た居た!」
 と、吉井が衝立越しに顔を覗かせた。
「何だ、本当に来たのか?」
「違う、違う。下女の件だ、下女の件。ちょうど良いのが見付かったんで、話を持って来たんだ」
「お前は何時から慶庵(けいあん)になったんだ?」
「ははっ。口入料は要らんぞ」
「口書はどうした? 放ったらかして来たのか?」
「ああ。急を要するでな。それに話を捩(ね)じ込むんだから、俺が自ら来て話をするのが筋だろう。どうだ? 此処では何だから、ちょっと他所(よそ)で詳しい話をしないか? 直ぐ済む」
 仕方がない奴だと、重太郎が呆れていると、
「おっ! 手に持っているのは、例のあれか?」
 と、吉井は顔をにやりとさせた。

時代劇小説『みこもかる』 五 自身番

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、配下の御用聞き安五郎親分を連れて、川向こうの佐賀町の裏長屋に居た。此処に住む絵師の染七は潜りで貸本をしていた。扱っているのは艶本。しかも見境無く、年端の行かない若い娘にも貸し与えているとかで、今回御用という事に……部屋に踏み込み、難無く染七を捕らえた。




     五 自身番

 自身番の中は人でごった返していた。
 山積みされた何十冊という艶本を挟んで、安五郎の横に染七を座らせた。
 壁際の机に家主が陣取り、火鉢の横には自番人の親仁が控えていた。
 次郎や卯助、安五郎の手下どもは建物の外で、上り框に腰掛けるか、玉砂利の上に突っ立っていた。更に柵の向こうには、近所の野次馬が大勢集まっていた。
 左平次と伝蔵は奥の板間の方に座って、それぞれ勝手次第に艶本を手に取って眺めていた。悪戯坊主さながら、おい、これ、と見せ合いっこをする始末。家主が居る手前、重太郎が咳払いをすると、いけねい、と二人は首を引っ込めた。
 後はもう安五郎に任せて、早々に八丁堀の調べ番屋に引き上げたい所だが、時には御上の御意向も示さねばならない。見せしめの意味合いも兼ねて、重太郎は自ら取調べを行った。わざとらしく、表の障子は半開きにして……先ずは順に、一昨日家を出てから、何所で誰と会って何をしていたのかを問い質していると、
「ちょっと通して下さいよ」
 と、表の方で声がした。
「これは四郎右衛門さん」
 と、家主が腰を上げた。
 佐賀町一帯の名主を務める四郎右衛門の所にも、先程人を遣って事の次第を知らせて置いた。
「嗚呼、これは池田様。御役目御苦労様です」
「こちらこそ、お騒がせしております」
「いえいえ、そんな」
 と、四郎右衛門は謙遜していたが、急に伏せ目がちになった。
「所であのう、お取り込み中、大変申し訳御座いませんが、少しお話を宜しいでしょうか?」
「構いませんが、此処で? それともお宅が宜しいでしょうか?」
「嗚呼、中でも構わないんですが……」
 足の踏み場も無い状況に、安五郎と染助が板間に移った。
「どうぞ、中へ」
「はい。では、お邪魔させて頂きます」
「おい!」
 と、重太郎は外に居る次郎に声を掛けて、開け放しの障子を閉めさせた。中の様子が見えなくなって、野次馬が一斉に、あ~と不満を発した。
 親仁がさっとお茶を出す。
「おお、済まないね」
 四郎右衛門は礼を言うと、目の前の艶本の山を一瞥した。
「実は町内に住む娘が、そこに居る男から本を借りたそうなんです」
(おや、まあ。そういう訳か)
 重太郎は心の隅でほくそ笑んだ。

2017年1月11日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 四 佐賀町(二)

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所定町廻り同心池田重太郎は貸本屋を捕らえるべく、川向こうの佐賀町のとある長屋へとやって来る。絵師の染七は近所の男どもや上さん連中を相手に潜りで艶本を貸していた。この程度の事なら普段は目を瞑るのだが……最近、染七は金に困ってもいるのか、嫁入り前の若い娘から、果ては十二、三歳ぐらいの年端のゆかない子供のような娘にまで本を貸し与えていた。






     四 佐賀町(二)

 若い下っ引きが走り去るのを横目に、重太郎は続けた。
「奴の家はどれだ?」
「右側の棟の、手前から三つ目です」
「うむ。次郎はそっちから裏に回れ」
「へい」
「伝蔵。済まないが、今行った若いのが帰って来たら、一緒に奥から反対側に回ってくれ」
「へい。承知しました」
「後は俺と一緒だ」
 少し待っていると、下っ引きが戻って来た。
「よし、行くぞ」
 と、重太郎は断を下した。
 人気の無い路地を、伝蔵と下っ引きが一足先に行く。
 その後を安五郎の先導で進んで行く。
 普段なら奥の方の井戸端に長屋の女房連中が群れていようものだが、人っ子一人誰の姿も見当たらない。皆異変に気付いて、自分の部屋に引っ込んでいるに違いなかった。
 染七の家の前を取り囲み、中の様子を窺うが……眠っているのか、物音一つしない。
 重太郎が顎で促すと、安五郎が油障子を叩いた。
 ドンドン。
「染七さん、居るかい? 染七さん」
「……」
 もう一度、ドンドン。
「染七さん」
「……」
 皆で雁首を揃えて声を押し殺す中を、風が流れた。
(磯の香りがするな……)
 重太郎は鼻をクンと鳴らして、今一度匂いを確かめてから、障子を開けるよう促した。
 安五郎が戸に手をやると、心張り棒などはしておらず、すっと開いた。
 居留守を決め込んでいたのか、布団に寝転がっていた染七が、びくんと身を起こした。矢場いと感じて、裏から逃げるつもりか、腰を上げたが、
「動くんじゃねえっ!」
 と叫んだ安五郎の凄みと、後から男達が雪崩れ込んで来たのに観念したのか、染七は布団の上にへなへなと座り込んだ。

時代劇小説『みこもかる』 三 佐賀町




     三 佐賀町

 場所は川向こう。大川こと隅田川を永代橋で渡って、直ぐ左手に在る佐賀町だった。
「こちらです」
 辰吉に導かれるまま付いて行くと、とある長屋の路地木戸の近くで、手下を連れた安五郎と落ち合った。
「どうも」
 と、安五郎は挨拶し掛けたが……左平次と伝蔵が居るのが目に入り、声を荒立てた。
「何でい、二人とも!」
「なに、丁度居合わせたもんでな。見物がてら、来させてもらったよ」
「嗚呼~。もしかして今日、口書だったのかい?」
「ああ」
「なら、悪い事しちまったな」
「染七は中に居るのか?」
 と、重太郎は話を遮った。
「あっ、はい!」
 と、安五郎は一度緩めた顔を元に戻した。
「帰ったきり、一度も外には出ていません」
「見張りは?」
「塀の向こうに一人置いています」
 染七の生業(なりわい)は絵師だが、近所の男どもや上さん連中を相手に潜りで貸本もしていた。扱っているのは主に艶本で、この程度の事なら普段は目を瞑って放って置くのだが……最近、染七は金に困っているのか、嫁入り前の若い娘から、果ては十二、三歳ぐらいの年端のゆかない子供のような娘にまで本を貸し与えるようになって、さすがに安五郎としても見逃して置く事は出来なくなった。
 一昨日の夕方、安五郎が自分の所に話を持って来たので、その日の内にお縄にする筈だったが、外出した染七を事もあろうに安五郎の手下が見失うというへまを仕出かした。結果無理に探し出したりはせず、本人が帰って来るのを待つ事にした次第で……
 まぁ、大した捕り物ではないのだが、安五郎本人にとってはかなり美味しい話だった。染七が貸本した人数を考えれば、引合は付け放題。かなりの実入りが期待出来るからだ。
「塀の見張りに、今から踏み込むと、知らせに行かせろ」
「おい!」
「へい」
 と、安五郎の下っ引きは一度行こうとしたが、足を止めた。
「あっ、親分。自分はその後はどうしたら?」
「馬鹿野郎、戻って来い!」
 と、安五郎が声を殺して怒鳴り散らした。

2017年1月10日火曜日

時代劇小説『みこもかる』 二 調べ番屋(二)



二 調べ番屋(二)

「三河屋の親仁が目を凝らして、生娘の股をこうやって、一人一人丹念に調べる」
「……」
「羨ましいのう」
 と、吉井はゆったりと首を振る。  
「だったら、商売替えでもしたらどうだ?」
 と、重太郎は突っ込んだ。
「ははっ。それは良いかもしれん」
「旦那、どうぞ」
 と、下男の呉作が吉井に茶を持って来た。
「おお、済まんな……しかし、出替わりの時機を過ぎたばかりだから、良い娘など早々には見つからんだろう?」
「まあな。取り敢えず今日は、長助を家に置いてきた」
「池田様、使いが来てますよ」
 と、呉作が戸口の方を指差した。
 見てみると、辰吉が立っていた。ほっと安堵の表情をしているのを、重太郎は手招きして呼び寄せた。
「話の途中に済みません。例の件なんですが……」
「漸く出番か?」
「へい。今し方、奴が寝床に帰って来やした」
「おっ、例の貸本屋の件か?」
 と、吉井が茶々を入れて来たが、
「ああ……」
 と、重太郎は生返事で相手にせず、
「もう引っ張ったのか?」
「いえ、まだです。内の親分は旦那に足を運んで頂きたいと」
「分かった……悪いが二人共、口書は後回しだ」
 と、重太郎は少し離れて立っている左平次と伝蔵に声を掛けた。
「相済みません」
 と、辰吉が二人に深々と頭を下げたが……左平次は手を振ってそれを遮った。
「おお、気にするな。いいってことよ。それより旦那、自分達もお供してもいいですかね?」
「よし! 俺も付いて行くとするか」
 と、吉井が膝に手を当てて、立つ素振りを見せた。
「馬鹿言え。町廻りが二人も行ったら、何事かと勘違いされるわ!」
 重太郎は吉井を制して、自分だけ立ち上がった。
「連れて行くのはお前達二人だけだ。手下は置いていけよ」
「へい」
 と、左平次と伝蔵はにんまり顔。
 吉井は詰まらなそうに苦虫を噛み潰していた。
「おい、行くぞ」
 と、重太郎は自分の供回りである小者の次郎と中間の卯助に声を掛けた。
 上がり框に腰掛けたままの吉井が、
「まあいい。後でじっくりお拝ませてくれよ」
 と、楽しそうに宣(のたま)った。

2017年1月9日月曜日

時代劇小説『みこもかる』 一 調べ番屋



     一 調べ番屋

 池田重太郎は上がり框(かまち)に腰掛けて、御用聞きの親分等と今日の口書について話をしていた。
「で、美濃屋の考えはどうなのだ?」
「へい。主も恥も外聞も掻き捨てて、見せしめに、罪を問うても構わないと、そう申して……」
 腰高障子がガタッと音を立てて開いた。
「よう!」
 と、吉井がお供を従えて、中に入って来た。にやにやしながら、隣にドンッと腰を下ろすなり、
「聞いたぞ。下女がお目出度という話ではないか! まさか深一郎の子じゃあるまいな?」
「馬鹿言え。内に来て十日も経ってないわ!」
 重太郎が半分本気で怒ってみせると、
「ははっ。冗談だ、冗談」
 と、吉井は笑い飛ばした。
 吉井とは餓鬼の頃からの腐れ縁である。お互い、父親が北の御番所の定町(じょうまち)廻り同心であった。親同士が仲が良かった事もあり、物心が付いた頃から一緒に遊び回り、手習塾も道場もずっと一緒。御番所に見習いで採用されたのも同時だった。ほぼ同じような役回り、昇進を重ねて、今は自分も吉井も定町廻り同心の役目を仰せ付かっている訳だが……特に緊急の用が無ければ、毎朝こうして調べ番屋で顔を会わすのが日課であった。
「もう家には居ない。昨日、娘の父親が迎えに来て、郷に帰った」
「何だ、もう帰ったのか?」
「ああ」
「内金はどうした? 返してもらったのか?」
「いや。御祝儀代わりにくれてやった」
「おー、気前が良い!」
「まぁ、短かったとは言え、内から嫁に出す訳だからな」
「ふむ……所で、代わりに来た娘はどうだ? いい子か?」
「代わりはまだ来てない」
「まだか?」
「ああ。今度は必ず身持ちの確りした子を入れますから、どうか二、三日待って下さい、とか言ってるそうだ」
「ふっ。身持ちが良いのかどうか、三河屋はどうやって調べるんだ? 股を開かせるのか?」
 土間に突っ立って話を聞いていた御用聞きの左平次や伝蔵、その他諸々の者達は皆吹き出したが……重太郎は飽きれて笑わなかった。

時代劇小説『みこもかる』 〇 梗概と登場人物




【梗概】北信濃から江戸に出稼ぎに来ていたお藤は、思いもせぬ恋愛沙汰に巻き込まれて、商家での下女奉公の口を失う。一方、時を同くして、江戸の若い娘の間で『見聞男女録』という公家物の御伽草子が流行り出す。だが、どうもその本には何か隠された秘密があるようで……

【登場人物】
藤…………………目の大きな器量持ちで、本が大好きな女の子。
池田重太郎………北町奉行所定町廻り同心。亡き父の蔵書が家の離れに残されている。
美代………………重太郎の妻。
深一郎……………重太郎と美代の一人息子。北町奉行所同心並。
次郎,卯助,長助…..重太郎の供回り。池田家に住み込みしている。
染七………………潜りの貸本屋。
嶋田屋當右衛門…京橋の古本屋の隠居。重太郎の亡き父と懇意にしていた。
吉井………………北町奉行所定町廻り同心。

【題の由来:万葉集巻第二・九六】
 水薦刈る 信濃の真弓 わが引かば
  貴人(うまひと)さびて 否といはむかも
(私が弓を引く心境で告白しても、貴方はお高くとまって「嫌だわ」とか言いそうだなぁ)

時代劇小説『みこみかる』 三三 井戸(八)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。昨晩宿直だった息子の深一郎は、昼過ぎに目を覚ます。裏の井戸で顔を洗うが、手拭いを忘れてしまい、袖で拭こうとしたが……其処へ、お藤が来て、手拭いを差し出す。が、深一郎は誤ってお藤の手をギュッと握ってしまい、彼女を驚かせてしまうのだっ...