2017年2月26日日曜日

時代劇小説『みこもかる』 二一 奥の間

【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎宅では、下女のお藤を雇い入れて、初めての朝を迎えていた。その働き振りには、妻のお美代も満足気だが……裏の水口にやって来る下っ引きや振り売りが一人残らず、お藤に逆上(のぼ)せていく様は圧巻で……呆れつつも、女はやはり顔だと自問自答した。


     二一 奥の間

 そろそろ朝五つ。夫、重太郎が家を出る時刻で……お美代は着替えを手伝っていた。夫の背後に回って羽織を着せていたが、傍に置いてある包みが気になって、ついそちらに目が行く。
 昨晩、夫は『見聞男女録(けんもんをとめろく)』なる公家物の御伽草子を読み耽っていたのだが……奥の間を見渡しても、何処にも置いていない。という事は、やはり、一晩で読み終えたという事か。で、今はあの包みの中……
「読みたいか?」
「えっ?」
「読みたいなら、読んでもいいぞ」
「宜しいのですか?」
「ああ。だが、一応証拠の物(ぶつ)だからな。いつまでも戻さないのは不味い。読むなら今日か明日中にでも読んでしまえ」
「はい」
 と、お美代は浮き浮きしながら、刀掛けの小刀を取った。
「あー、お藤の目には触れないようにした方がいいかもな」
「えっ、何故です?」
「一応男女の恋の話だからな。前の奉公先で、ああいう事があったばかりだから……変に思い出して、気を揉んだりするかもしれん」
「嗚呼、そうですね」
「今はとても読む気分じゃないだろう」
「はい。分かりました」
 夫を見送りに玄関に出ると……くっちゃべって和んでいた次郎達が口を閉じて、すっと立ち竦んだ。
「行ってらっしゃいませ」
「うむ」
 夫達の姿が見えなくなると、お美代は台所に顔を出した。
 お藤は丁度お茶碗にご飯をお替りしようとしている所で……目が合うと、お藤はしゃもじを引っ込めて、お櫃(ひつ)の蓋(ふた)を閉めようとした。
「嗚呼、直ぐに用事がある訳じゃないから。いいのよ。遠慮しないで、好きなだけ食べなさい」
「はい」
「急がなくていいから。ゆっくりでいいわよ」
 お美代は障子を一つ隔てた茶の間に行くや、着物や裁縫道具を広げて、如何にも針仕事をしているように偽装した。そして、奥から『見聞男女録』を持って来ると、こっそり読み始めた。

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