2017年4月11日火曜日

時代劇小説『みこみかる』 三三 井戸(八)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。昨晩宿直だった息子の深一郎は、昼過ぎに目を覚ます。裏の井戸で顔を洗うが、手拭いを忘れてしまい、袖で拭こうとしたが……其処へ、お藤が来て、手拭いを差し出す。が、深一郎は誤ってお藤の手をギュッと握ってしまい、彼女を驚かせてしまうのだった。


     三十三 井戸(八)
 
 深一郎は母から包みを受け取ると、家を出た。
 暫く歩くと、向こうから長助が駆けて来た。
「あれ、お出掛けですか?」
「ああ」
 長助はこちらが手に提げている包みに興味津々(しんしん)で、目を凝らしていた。
 深一郎は親指で家の方を指差しながら、
「おい、昨日来たそうだな」
「嗚呼、はい。昨日の晩に。お藤ちゃんにお会いになりました?」
「ああ……三河屋が連れて来たのか?」
「いえ、違います。吉井の旦那の紹介ですよ」
「……」
 深一郎は呆然としたが、気を取り直して、
「吉井さんが取り成したって、何でまた?」
「ああ……何でも奉公先を探している娘がいるってのが、吉井の旦那の耳に入って。それは丁度良いって事で、内に紹介したそうです」
「ふ~ん」
「前居た奉公先の時の請人と吉井の旦那が顔見知りだそうで」
(ん? 出替わりの時期を疾(とう)に過ぎているのに、何故今頃探す? 何か有ったのか?)
「前の奉公先は何処だ? 聞いているか?」
「いえ、聞いていません。自分は昨日一日中家に居て、迎えには行かなかったんで。そこまで詳しい話はちょっと」
「態々(わざわざ)迎えに?」
「はい。帰りに皆で。吉井の旦那も一緒で。お藤ちゃんを人宿まで迎えに行ったそうです」
「ふ~ん」
「兄貴に聞いときますか? 知っているかも」
「ああ。うん……あっ、待て。次郎や卯助には聞いてもいいが、俺が聞いたとは言うなよ」
「はい」
「分かったら、後でこっそり教えろ」
「はい」
「頼んだぞ」
「はい……所で、何処にお出掛けになるんですか?」
「ん? あー、石橋の伯母さんの所だ」
「えっ!」
「お前も来るか?」
「いや、いいです」
「付いて来い。羊羹が食えるぞ」
 ほれ、と包みを持ち上げて見せたが、
「遠慮しときます。自分は風呂焚きしないといけないんで。それじゃ」
 からかったのだが、効果覿面(てきめん)。長助は脱兎の如く家の方に逃げて行った。

2017年4月9日日曜日

時代劇小説『みこみかる』 三二 井戸(七)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は玄関先で三河屋を応対していた。口入屋の間で、お藤という名の小女と請人の半次郎が美人局紛いの事をしているという話に耳を疑ったが、まさか今、内に居る下女がそれだとは口が避けても言えず。三河屋が帰った後、お美代はお藤に針仕事を頼むが……お藤の素直な態度を見ていると、やはり三河屋の話は出鱈目(でたらめ)に思えた。


     三十二 井戸(七)

「うう~ん」
 と、深一郎は目を覚ました。
 玄関脇の厠で用を足し、茶の間に顔を出してみると……母は針仕事を放り出して、貸本を読んでいた。場が悪そうに、本を置くと、
「あら、起きたの?」
「はい」
「羽織の解(ほつ)れ、直しておいたから、持って行きなさい」
 一応やる事はやっていたらしい。
「今、何時です?」
「もうそろそろ八つだと思うけど。嗚呼、鈴木様の所に行くんだったわね?」
「はい」
「お昼はどうする?」
「んー、減ってないんで、取り敢えずいいです」
「そう」
「あっ、見舞いの品は?」
「羊羹(ようかん)が有るから、それでいいでしょう?」
「はい」
「今、用意するから。顔でも洗って来なさい」
 母は台所に出て行き、自分も後に続こうとしたが……そちらにはお藤が居るのを思い出して足が止まった。朝の対面の時のように、顔を背かれるのではないかとの想いが頭を過ぎった。
(自分の家で何を躊躇している。えーい、成るが儘(まま)よ!)
 勇気を振り絞って台所に入ったが、
「ほら、邪魔っ!」
 羊羹の入った箱を片手に、茶の間へと戻ろうとしていた母と肩がぶつかり、邪険にされた。
 と、其処へ、
「お早う御座います」
 と、お藤が手を止めて、声を掛けてきた。こちらはちゃんと真面目に針仕事をしていた。
「おっ」
 と、深一郎は短く返事をすると、そのまま裏の井戸に出た。水を汲んで、じゃぶじゃぶと顔を洗っていたが、
「あっ!」
 手拭いが無いのに気付いた。
(まあ、いいか)
 と、袖で拭こうとした所……軽い足音が近づいて来た。小刻みで、軽やかな足音でで、母のでないのは明らかだった。
「どうぞ」
「おっ、済まんな」
「いえ」
 差し出された手拭いを受け取ろうとしたが……顔が濡れて視界が利かなかったのと、若干顔を背け気味にした所為で……お藤の手首の辺りを思いっきり、ぎゅっと摑んでしまった。
「きゃっ!」
「あっ、済まん。間違えた」
 直ぐに手を離して謝ったが、お藤は右手を胸に引き寄せて、困惑顔をしていた。
「わっ、態(わざ)とではない。本当だっ!」
「……」
 お藤は無言で頭を僅かに下げると、家の中へと駆けて行った。
 深一郎はそれを虚(むな)しく見送る事しか出来なかった。

2017年4月8日土曜日

時代劇小説『みこみかる』 三一 井戸(六

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は下女の件で訪ねて来た三河屋(口入屋)の応対をする。夫の同僚の吉井が紹介した下女を雇い入れた事を詫びるお美代。三河屋は次回こそは手前に紹介させて下さいと懇願しつつ、序(ついで)に、最近、口入屋の間で出回っている触れの事を話し出す。何でも、とある大店で恋愛沙汰を起こした、とんでもない小女がいるという話であったが。十中八九、いや、間違い無く、内に新しく来たお藤の事と思われ……


     三十一 井戸(六)

「言い寄ってきたのは男の方だ。こちらは悪く無い。そんな事より、早く新しい仕事を紹介しろと凄んで来て。その口入屋は随分と怖い思いをしたそうですよ。無茶苦茶な話だと思いませんか? 問題を起こしておいて、次の仕事を紹介しろというのは?」
「はぁ」
 と、お美代は一応相槌をしておいた。
「きっとあれですよ」
 と、三河屋は声を殺し、左目を顰(ひそ)めて、
「お藤とかいう娘を使って、奉公先の主なり、その息子を誘惑して、体の関係を持たせて。その後で、無理矢理手籠めにされたとか騒いで、金を出させる。美人局、強請りの常習犯ですよ、きっと。内にも来ないかと戦々兢々していますがね……因みにその娘の名はお藤というのですが、半次郎諸共信州者だそうですよ」
(大当たり~! とか言っている場合じゃないわね。何だか凄い言われ様なんですけど。う~ん。今、内に居るのがその本人ですなんて、とても言えないわ。違う名を言って誤魔化しても、後で知れたら気不味いし。はぁ、困った!)
「私も人に会う毎に、その二人組には気を付けるよう言ってるんですよ」
「嗚呼、そうなんですか。怖い話ですわねぇ。主人の耳にも入れて置かないと」
「はい。その方が宜しいですよ」
「態々お知らせ下さり、有難う御座います」
「いえいえ、こちらこそ御役に立てれば何よりです」
「必ず主人に伝えて置きますっ!」
 と、お美代は語尾を強めて、深々と頭を垂れた。
 三河屋もこちらの雰囲気を察したようで、
「ああ……では、手前もそろそろ失礼します」
「今日は御足労を御掛けして、申し訳御座いませんでした。次の機会の時は宜しくお願いします」
「はい、こちらこそ。次こそは必ず真面目な子を紹介させて頂きますから」
 と、三河屋はやっと帰ってくれた。
(ふ~。立ちっ放しで話を聞くのも疲れるわね)
 お美代は額の汗を拭(ぬぐ)うと、菓子箱を持ってそのまま台所に出た。
「お客様は帰られたわ」
「はい」
 お藤はお茶が出せるよう準備はしていたようだが、空振りとなった。三河屋がお藤と顔を会わせたら、どんな顔をするか? 見物と言えば見物だが……
(まぁ、会わせない方が正解か)
「これ、中身は煎餅だから。八つのお茶の時に頂きましょう」
「はい」
「掃除は終わり?」
「はい。茶の間意外は終わりました」
「茶の間はお昼の後でいいから」
「はい」
「それまでは、針仕事をお願いするわ。次郎達の分の綿入れをして欲しいの」
 と、あれこれと指図をした。
 お藤は大きな目を見開きながら、
「はい」
 と、その都度深く深く頷いて……やはりどう見ても、自分から男に言い寄って、ちょっかいを出すような尻軽には見えなかった。それに、慶庵(けいあん、=口入屋)の間に出回っているというその触れは、何処か悪意の様な物が感じられたし。

2017年4月6日木曜日

時代劇小説『みこみかる』 三十 井戸(五)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は息子の羽織の破れを繕い終えるや、公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を取り出し、読み耽る。憂ひの君は里の娘を見染めて、見事懇(ねんご)ろとなる。二人の仲は日に日に深まるが、其処に山賤(やまがつ)が割って入ろうとして……と、其処まで読んだ所で、来客があり、お美代は自ら玄関に向かった。


     三十 井戸(五)

「お待たせしました」
「嗚呼、奥様ーっ!」
「あら、三河屋さん」
 訪問者は口入屋で……招かざる客だが、お美代は噯気(おくび)にも出さず、
「もしかして、下女の件で?」
「はい!」
「嗚呼。お願いしていたのに、急にお断りして、誠に申し訳御座いません」
「いえ。元はと言えば、好(よ)からぬ娘を紹介してしまった手前が悪う御座います」
「はぁ。でも、どちらかに声を掛けていたとか、御迷惑お掛けしませんでしたか?」
「いえ、それは御心配無く。それより、吉井様から新しい娘を紹介されたと伺いましたが」
「はい。昨日の晩に主人が連れて帰って来ました」
「そうですか。なら安心しました……所で、大変厚かましいお願いなのですが」
「何でしょう?」
「この次の出替わりで新しい子を入れる時は、何卒(なにとぞ)手前どもに任せて頂けませんでしょうか?」
「はい。それはもう、是非お願いします」
「嗚呼、その御言葉を頂けるとは。本当に有難う御座います」
 三河屋は恐縮しきりだが、半分嬉しさを隠し切れずにいた。
 次の出替わりが半年後か、それとも一年後になるのかは不確かではあるが、商売する身としては、定町廻り同心の家の御用達とあらば箔も付く。世間の信用は得られるし、同業者にも何かとでかい顔が出来る。何かの時は口を聞いてもらえて、頼りになる。是非とも失いたくない得意先である訳で。
「これ、つまらない物なのですが」
 と、三河屋は菓子箱を差し出した。
「嗚呼、お気遣いなさらずに。この間も頂いたのに」
「いえいえ。どうぞ、御納め下さい」
 三河屋が毎回持参するのは煎餅(せんべい)だった。行列しないと買えない評判の店の物で、決して安いという訳でもないし、味も好いのだが、中に金品が入っていた例は嘗(かつ)て一度も無かった。代わりに、夫の袖の下には入れているのだろうが。
「所で、新しい子は奉公はこの度が初めてで?」
「いえ。他所で二年程働いていたそうです」
「嗚呼、そうですか。二年……失礼ですが、その子の名は?」
「名ですか?」
「ええ」
「……」
 三河屋の表情が急に曇ったので、お美代も答えるのに躊躇した。
「嗚呼、いえ。ちょっと気になる事が御座いまして。実は我々の仲間内にとある触れが出ていましてね。店の名は伏せますが……ある大店(おおたな)の主が一人娘のお嬢さんに婿を取ろうとしたのですが、よりによって、その家に奉公している小女(こおんな)が、その婿の男に言い寄りましてね。それが露見して、婿入りの話自体が流れてしまったんです」
 この時点で十中八九、いや、間違いなくお藤の事だと思われ。
「その小女はとんでもない事を仕出かした訳ですが、飽きもせずにまた下女の口にあり付こうと、あちこち仕事先を探しているという話なんですよ。おまけに請人の半次郎というのが、これがまた凶暴らしくて。顔に大きな傷が有るとかで」
(出た、半次郎! でも、顔に大きな傷って……主人はそんな事、言ってなかったわよね。初耳だわ)

時代劇小説『みこみかる』 二九 井戸(四)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。息子の深一郎は宿直を終えて、屋敷に帰って来たが、裏の井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。新しい下女だとは露知らず。家を間違えたと表へと飛び出したが……母のお美代が玄関まで様子を見に来て、漸く我が家だと合点。と、此処で深一郎は、明日から暫くの間、本書方勤めになる事を母に告げて……その後、深一郎とお藤は改めて初対面の挨拶を交わした。


     二十九 井戸(四)

 息子は飯を食べ終えると、自室にさっさと引き上げて、寝てしまった。
 一方、お美代は羽織の綻びを直すのに格闘した。それをやっとこさ終えると、三度『見聞男女録』を取り出した。
(あ~、もうっ! 思いっきり邪魔が入ったわね)
 さてさて。憂ひの君はお供の衣服を借りて身を窶(やつ)すと、娘の前へと進み出た。
 道に迷ったと言って、娘の警戒を上手に解くと、菜を摘むのを手伝う。
『仄(ほの)咲きて千入(ちいり)染むるる藤の花 下照る芹(せり)を折りて香ぞする』
 歌なんぞ詠んでやったりして、娘はもう、うっとり。
『君は引きしろへば、娘の手より芹が落ちにけり云々(うんぬん)』
 と、此処までしか書いていないのだが、其処は其処。読者の娘達の頭の中はさぞかしモヤモヤのしっ放しに違いない。
 君は明日も此処で会おうと娘と約束すると、お土産の芹を手に山を下りて行った。
 はい、次! 三段目の『手結び』。
 憂ひの君は次の日も山に登る。
 娘は遅れてやって来るが、その手は畑仕事で汚れていた。君は娘を川縁に連れて行き、その手を洗ってやる。
 ここで君は、喉が渇いて堪らない、どうかその手で私に水を飲ませておくれ、と娘に懇願する。
 娘は両の掌(てのひら)で小川の水を掬(すく)って差し出すが、君は直ぐには飲もうとしない。何故飲まないの?と聞く娘。
 君は答える。ほら、見てごらん。掌の水に藤の花が映って、綺麗な事。
 娘が掌の水を覗き込むと、水面には自分の顔が映ていた。
 君は駄目押しの一言を。あなたは山藤のように美しい。
 娘は掌を結んだまま、顔を赤らめる。
 漸く、君は娘の掌に顔を埋めて、水を飲んだ……此処も其処から先は書かれていないが、もう頭が爆発しそう。本を読んでいる娘達は全員、掌を結んで川の水を掬う真似をしているに違いない。序(つい)でに自分の顔を掌に埋めてみたりして。
 さぁ~、さぁ~、四段目に突入。
 憂ひの君は足繁く娘の元に通う。余りの熱の入れように、家司の惟武が諌めるが、君は聞く耳を持たない。服を早く貸せ、と逆にせっつかれる始末。
 諦め顔の惟武は、『程なく移ろひさうらふなり』と嘆息しつつ、歌を詠む。
『つめどなほ匂いおこせり山藤や 衣のあるじうしろめたしも』
 さぁ、此処で遂に山賤(やまがつ)の御登場~。
 憂ひの君と娘が小川の辺で睦まじくしていると、山賤が姿を見せる。君は娘に手を引かれて、一緒に木陰に隠れる。
 山賤は娘の名を呼び続けて、辺りを隈なく捜し回る。
(嗚呼~、このままでは見付かってしまう……)
「御免下さいっ!」
 と、良い所だったのに、玄関から声が聞こえた。
 お美代は本を隠すと、自分が出るからとお藤に一声掛けて、玄関に向った。

2017年4月2日日曜日

時代劇小説『みこみかる』 二八 井戸(三)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。病状が回復した憂ひの君は散策に出掛ける。山へと分け入ると、咲き誇る藤の花の下で賤(しず)の女(め)が山菜採りをしているのを見つけ……と、此処まで読んだ所で、邪魔が入る。宿直から帰宅した息子の深一郎が井戸で洗濯をしていたお藤と鉢合わせしたが、間違えましたとか言って、慌てて出て行ったという。


     二十八 井戸(三)

 外を覗いてみると……息子が門の辺りで、頻(しき)りに敷地の中を窺(うかが)っていた。
「深一郎!」
「あっ、母上」
「何をしているの、そんな所で?」
「あ、いえ……あっ!」
 息子は漸く気付いたようで、裏の方を指差しながら、
「もしかして、新しく来た下女ですか?」
「そうよ。昨日の夕方来たのよ」
「なんだ~」
「なんだじゃないわよ。表に飛び出したっていうから、来てみれば!」
「いやぁ、寝惚けて全然違う家に入ったのかと思ったんですよ」
 と、深一郎は頭を掻いていた。
「ほら。そんな所に立ってないで、早く入りなさい」
「はい」
「朝御飯は?」
「食べます……あっ、そうだ、母上! 自分は明日から暫くの間、本所方の方に通う事になりました」
「本所方?」
「はい。と言っても代役ですよ。鈴木さんがまたご病気になられて」
「まぁ」
「今度は少し長引きそうなので、治られるまで代わり行けと言われました」
「あら、そう……鈴木様、そんなにお体がお悪いのかしら?」
「どうなんでしょうね。まぁ、今日暇な内に、見舞いがてら挨拶に行こうと思っていますので。その時にでも」
「じゃあ、何かお持ちしないとね」
「はい、お願いします。あっ、それとこれなんですが……」
 と、深一郎は左腕を上げた。
 羽織の脇の所が解れていた。
「あらっ!」
「これもお願いします」
「はいはい……あっ! 紹介するから、ちょっと来なさい」
「はぁ……」
 台所に戻ってみると、お藤は土間に立って待っていた。
(さて、どんな顔をするかしら?)
 お美代がちらっと息子の顔を見てみると、懸命に顔を作っていた。
「紹介するわ。息子の深一郎よ」
「藤です。宜しくお願いします」
 と、お藤は体が二つに折れんばかりに深く頭を下げた。
「深一郎です。こちらこそ宜しく」
 頭を上げたお藤は再び息子と目が合ったのだが、思いっきり視線を逸らした。後はもう俯(うつむ)くばかりで……
(ありゃまぁ!)
「ああ、お藤。深一郎の膳の用意を頼むわ」
「はい」
 息子の方はと言うと、そそくさと自分の部屋に行こうとしていた。
「羽織、脱いだら、こっちに持って来なさいよ!」
「はぁ」
 と、深一郎は返事だか欠伸(あくび)だか判らぬのを返してきて、視界から消えた。
 初心な息子が独りあたふたする。対して、今まで男の視線を死ぬ程浴びてきたお藤は平然とそれを受け止める。そういうのを予想していたのだが……結果は寧ろ逆で、お藤がこうも息子の事を意識するとは意外であった。
 前の奉公先でああいう事が有ったので、雇い主の息子に過剰に反応してしまったのか? まさかお藤が内の息子に一目惚れしたとも思えないし。
 お美代は茶の間に戻ったが、畳の上に『見聞男女録』が裸で置きっ放しになっていた。
(あら、いけない!)
 と、本を奥の間に暫し隠した。

2017年4月1日土曜日

時代劇小説『みこみかる』 二七 井戸(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の同心池田重太郎とお美代夫婦の一人息子、深一郎は奉行所での宿直を終えて、我が家へと帰って来た。と、丁度、井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。裾から覗く、白い肌に吃驚仰天した深一郎は思わずその場から逃げ出したのであった。


     二十七 井戸(二)

 同じ頃、と言っても少し時を遡(さかのぼ)るが……お美代は茶の間で『見聞男女録』の続きを読んでいた。
 話は移って、二段目の『山菜取りの少女(をとめ)』。
 憂ひの君は寺に上がり、日々加持を受けて過ごす。やがて、体の具合も良くなると、聖の勧めもあって、散策へと出掛ける。
 大きな川に沿って、上流に進んで行くと、左手の山から煙が立ち昇っていた。炭を焼く煙かと、興味を抱いた君は、その山へと向きを変える。
 山からは小川が流れ出ており、それに沿って進んで行くと、都では盛りを過ぎた藤の花が、此処では丁度開花の頃で、色付き始めていた。
 山藤の群生は更に上流へと続いており、君は馬から降りて歩いて見て回る。煙の事など疾(と)うに忘れていた。山藤の美しさに惹(ひ)かれて奥へ奥へと進むと、一際大きな房が目に留まった。
 その下では、賤(しず)の女(め)が一人で菜を摘んでいた。
(う~ん、山藤ねえ。確かにこれは不味いかも。里の娘とお藤が何だか被ってしまうし……)
 お美代は口絵を眺めながら頷いた。
 口絵には、木陰から覗き見する君と、菜を取るのに夢中な娘。周りには、山藤の花が沢山描き込まれていた。
 憂いの君が、お藤に懸想しようとした男に見えて仕方がない。きっとこのような状況だったのだろう。
(夫の言う通り、お藤には見せないようにしないと……)
 と、其処(そこ)へ、突然、
「○▽ん、☓■ひゃー」
 と、訳の分からない男の奇声が屋敷中に響き渡った。
(何事? 外のようだけど……ん! まさか、例の縁談相手の男がお藤の居所を掴んで乗り込んで来たかー?)
 お美代は傍に置いてあった孫の手を掴んだ。意を決し、障子を開けて台所に出てみると……お藤が血相を変えて土間に入って来た。
「どうしたの? 今の声は何?」
「はい。深一郎様だと思うんですけど。男の方が裏に回られて来て。間違えましたと言って、直ぐに外に出て行かれて……」
 お藤の瞳が、もうこれ以上無理というぐらい見開いていた。こんなに大きな目を持った娘は江戸市中にも居やしまい。見た事ないけど、大奥にも。もしかしたら、日の本一なんじゃないかと……
「嗚呼、ちょっと待ってて。見て来るから」
 お美代は急いで玄関に行ってみたが、誰の姿も無かった。

時代劇小説『みこみかる』 三三 井戸(八)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。昨晩宿直だった息子の深一郎は、昼過ぎに目を覚ます。裏の井戸で顔を洗うが、手拭いを忘れてしまい、袖で拭こうとしたが……其処へ、お藤が来て、手拭いを差し出す。が、深一郎は誤ってお藤の手をギュッと握ってしまい、彼女を驚かせてしまうのだっ...