2017年4月1日土曜日

時代劇小説『みこみかる』 二七 井戸(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の同心池田重太郎とお美代夫婦の一人息子、深一郎は奉行所での宿直を終えて、我が家へと帰って来た。と、丁度、井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。裾から覗く、白い肌に吃驚仰天した深一郎は思わずその場から逃げ出したのであった。


     二十七 井戸(二)

 同じ頃、と言っても少し時を遡(さかのぼ)るが……お美代は茶の間で『見聞男女録』の続きを読んでいた。
 話は移って、二段目の『山菜取りの少女(をとめ)』。
 憂ひの君は寺に上がり、日々加持を受けて過ごす。やがて、体の具合も良くなると、聖の勧めもあって、散策へと出掛ける。
 大きな川に沿って、上流に進んで行くと、左手の山から煙が立ち昇っていた。炭を焼く煙かと、興味を抱いた君は、その山へと向きを変える。
 山からは小川が流れ出ており、それに沿って進んで行くと、都では盛りを過ぎた藤の花が、此処では丁度開花の頃で、色付き始めていた。
 山藤の群生は更に上流へと続いており、君は馬から降りて歩いて見て回る。煙の事など疾(と)うに忘れていた。山藤の美しさに惹(ひ)かれて奥へ奥へと進むと、一際大きな房が目に留まった。
 その下では、賤(しず)の女(め)が一人で菜を摘んでいた。
(う~ん、山藤ねえ。確かにこれは不味いかも。里の娘とお藤が何だか被ってしまうし……)
 お美代は口絵を眺めながら頷いた。
 口絵には、木陰から覗き見する君と、菜を取るのに夢中な娘。周りには、山藤の花が沢山描き込まれていた。
 憂いの君が、お藤に懸想しようとした男に見えて仕方がない。きっとこのような状況だったのだろう。
(夫の言う通り、お藤には見せないようにしないと……)
 と、其処(そこ)へ、突然、
「○▽ん、☓■ひゃー」
 と、訳の分からない男の奇声が屋敷中に響き渡った。
(何事? 外のようだけど……ん! まさか、例の縁談相手の男がお藤の居所を掴んで乗り込んで来たかー?)
 お美代は傍に置いてあった孫の手を掴んだ。意を決し、障子を開けて台所に出てみると……お藤が血相を変えて土間に入って来た。
「どうしたの? 今の声は何?」
「はい。深一郎様だと思うんですけど。男の方が裏に回られて来て。間違えましたと言って、直ぐに外に出て行かれて……」
 お藤の瞳が、もうこれ以上無理というぐらい見開いていた。こんなに大きな目を持った娘は江戸市中にも居やしまい。見た事ないけど、大奥にも。もしかしたら、日の本一なんじゃないかと……
「嗚呼、ちょっと待ってて。見て来るから」
 お美代は急いで玄関に行ってみたが、誰の姿も無かった。

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