2017年4月6日木曜日

時代劇小説『みこみかる』 三十 井戸(五)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は息子の羽織の破れを繕い終えるや、公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を取り出し、読み耽る。憂ひの君は里の娘を見染めて、見事懇(ねんご)ろとなる。二人の仲は日に日に深まるが、其処に山賤(やまがつ)が割って入ろうとして……と、其処まで読んだ所で、来客があり、お美代は自ら玄関に向かった。


     三十 井戸(五)

「お待たせしました」
「嗚呼、奥様ーっ!」
「あら、三河屋さん」
 訪問者は口入屋で……招かざる客だが、お美代は噯気(おくび)にも出さず、
「もしかして、下女の件で?」
「はい!」
「嗚呼。お願いしていたのに、急にお断りして、誠に申し訳御座いません」
「いえ。元はと言えば、好(よ)からぬ娘を紹介してしまった手前が悪う御座います」
「はぁ。でも、どちらかに声を掛けていたとか、御迷惑お掛けしませんでしたか?」
「いえ、それは御心配無く。それより、吉井様から新しい娘を紹介されたと伺いましたが」
「はい。昨日の晩に主人が連れて帰って来ました」
「そうですか。なら安心しました……所で、大変厚かましいお願いなのですが」
「何でしょう?」
「この次の出替わりで新しい子を入れる時は、何卒(なにとぞ)手前どもに任せて頂けませんでしょうか?」
「はい。それはもう、是非お願いします」
「嗚呼、その御言葉を頂けるとは。本当に有難う御座います」
 三河屋は恐縮しきりだが、半分嬉しさを隠し切れずにいた。
 次の出替わりが半年後か、それとも一年後になるのかは不確かではあるが、商売する身としては、定町廻り同心の家の御用達とあらば箔も付く。世間の信用は得られるし、同業者にも何かとでかい顔が出来る。何かの時は口を聞いてもらえて、頼りになる。是非とも失いたくない得意先である訳で。
「これ、つまらない物なのですが」
 と、三河屋は菓子箱を差し出した。
「嗚呼、お気遣いなさらずに。この間も頂いたのに」
「いえいえ。どうぞ、御納め下さい」
 三河屋が毎回持参するのは煎餅(せんべい)だった。行列しないと買えない評判の店の物で、決して安いという訳でもないし、味も好いのだが、中に金品が入っていた例は嘗(かつ)て一度も無かった。代わりに、夫の袖の下には入れているのだろうが。
「所で、新しい子は奉公はこの度が初めてで?」
「いえ。他所で二年程働いていたそうです」
「嗚呼、そうですか。二年……失礼ですが、その子の名は?」
「名ですか?」
「ええ」
「……」
 三河屋の表情が急に曇ったので、お美代も答えるのに躊躇した。
「嗚呼、いえ。ちょっと気になる事が御座いまして。実は我々の仲間内にとある触れが出ていましてね。店の名は伏せますが……ある大店(おおたな)の主が一人娘のお嬢さんに婿を取ろうとしたのですが、よりによって、その家に奉公している小女(こおんな)が、その婿の男に言い寄りましてね。それが露見して、婿入りの話自体が流れてしまったんです」
 この時点で十中八九、いや、間違いなくお藤の事だと思われ。
「その小女はとんでもない事を仕出かした訳ですが、飽きもせずにまた下女の口にあり付こうと、あちこち仕事先を探しているという話なんですよ。おまけに請人の半次郎というのが、これがまた凶暴らしくて。顔に大きな傷が有るとかで」
(出た、半次郎! でも、顔に大きな傷って……主人はそんな事、言ってなかったわよね。初耳だわ)

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