2017年4月6日木曜日

時代劇小説『みこみかる』 二九 井戸(四)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。息子の深一郎は宿直を終えて、屋敷に帰って来たが、裏の井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。新しい下女だとは露知らず。家を間違えたと表へと飛び出したが……母のお美代が玄関まで様子を見に来て、漸く我が家だと合点。と、此処で深一郎は、明日から暫くの間、本書方勤めになる事を母に告げて……その後、深一郎とお藤は改めて初対面の挨拶を交わした。


     二十九 井戸(四)

 息子は飯を食べ終えると、自室にさっさと引き上げて、寝てしまった。
 一方、お美代は羽織の綻びを直すのに格闘した。それをやっとこさ終えると、三度『見聞男女録』を取り出した。
(あ~、もうっ! 思いっきり邪魔が入ったわね)
 さてさて。憂ひの君はお供の衣服を借りて身を窶(やつ)すと、娘の前へと進み出た。
 道に迷ったと言って、娘の警戒を上手に解くと、菜を摘むのを手伝う。
『仄(ほの)咲きて千入(ちいり)染むるる藤の花 下照る芹(せり)を折りて香ぞする』
 歌なんぞ詠んでやったりして、娘はもう、うっとり。
『君は引きしろへば、娘の手より芹が落ちにけり云々(うんぬん)』
 と、此処までしか書いていないのだが、其処は其処。読者の娘達の頭の中はさぞかしモヤモヤのしっ放しに違いない。
 君は明日も此処で会おうと娘と約束すると、お土産の芹を手に山を下りて行った。
 はい、次! 三段目の『手結び』。
 憂ひの君は次の日も山に登る。
 娘は遅れてやって来るが、その手は畑仕事で汚れていた。君は娘を川縁に連れて行き、その手を洗ってやる。
 ここで君は、喉が渇いて堪らない、どうかその手で私に水を飲ませておくれ、と娘に懇願する。
 娘は両の掌(てのひら)で小川の水を掬(すく)って差し出すが、君は直ぐには飲もうとしない。何故飲まないの?と聞く娘。
 君は答える。ほら、見てごらん。掌の水に藤の花が映って、綺麗な事。
 娘が掌の水を覗き込むと、水面には自分の顔が映ていた。
 君は駄目押しの一言を。あなたは山藤のように美しい。
 娘は掌を結んだまま、顔を赤らめる。
 漸く、君は娘の掌に顔を埋めて、水を飲んだ……此処も其処から先は書かれていないが、もう頭が爆発しそう。本を読んでいる娘達は全員、掌を結んで川の水を掬う真似をしているに違いない。序(つい)でに自分の顔を掌に埋めてみたりして。
 さぁ~、さぁ~、四段目に突入。
 憂ひの君は足繁く娘の元に通う。余りの熱の入れように、家司の惟武が諌めるが、君は聞く耳を持たない。服を早く貸せ、と逆にせっつかれる始末。
 諦め顔の惟武は、『程なく移ろひさうらふなり』と嘆息しつつ、歌を詠む。
『つめどなほ匂いおこせり山藤や 衣のあるじうしろめたしも』
 さぁ、此処で遂に山賤(やまがつ)の御登場~。
 憂ひの君と娘が小川の辺で睦まじくしていると、山賤が姿を見せる。君は娘に手を引かれて、一緒に木陰に隠れる。
 山賤は娘の名を呼び続けて、辺りを隈なく捜し回る。
(嗚呼~、このままでは見付かってしまう……)
「御免下さいっ!」
 と、良い所だったのに、玄関から声が聞こえた。
 お美代は本を隠すと、自分が出るからとお藤に一声掛けて、玄関に向った。

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