2017年3月1日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 二三 離れ

【前回の『みこもかる』は?】朝の調べ番屋。北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、同僚の吉井を相手に会話を交わす。話題は池田家の新しい下女お藤についてだが……その美貌に一人息子の深一郎が骨抜きにされたのではと、吉井が茶々を入れてきたが、生憎深一郎は昨晩宿直で、まだお藤とは顔を合わせていなかった。


     二三 離れ

 お美代は針仕事なんかそっちのけで……『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。
(さ~て。先ずは前付の序か。ふむふむ)
 京都在住の、鄙良香(ひなのりょうか)なる人物は芝居見物の際、立ち寄った古本屋で一冊の備忘録を見つける。備忘録には幾つかの歌物語が書き留められていた。その内の一つ『花の下の乙女』という話は実に良く出来ているので、この話だけを取り出して、新たに一冊の本に纏(まと)めたのが本書である云々(うんぬん)と書かれていた。
(お決まりの筆者紹介ね。どうせ出鱈目(でたらめ)だろうけど)
 さて、一段目は『宇治の眺め』。此処からがいよいよ物語の始まり。
 瘧(わらい)病を患った貴人は治療を受ける為、高名な聖の元へ赴く。その途上、宇治で中宿りをする。翌朝出立するが、此処で一句。
『橘の小島の春は色ふれど 今偲ぶるは雪の足跡』
 晩春の宇治の風景を眺めながら、女の所に通っていた冬の頃を懐かしむという歌を詠む。どうやら貴人は恋に破れた後で、病もそれが原因らしい。
 と、此処で、筆者が再登場。本人にとってこの事実が世に伝わるのはさぞかし不名誉であろう。故に貴人の名も官名も一切伏せる。以後は『憂(うれ)ひ君』と呼ぶ云々とある。
(『源氏物語』の『光る君』に比べたら、ぱっとしないわね。しかし、この辺りの駆け出しは『若紫』の話っぽくて、若い娘の読者が飛び付くのも頷けるわ)
 と、此処まで読んだところで、
「奥様、食べ終わりました」
 と、お藤が声を掛けてきた。
 お美代は着物の下に本を隠すと、立ち上がって障子を開けた。
「一度、一緒に家の中を見て回りましょうか?」
 茶の間から右回りに、奥の間、仏間、息子の部屋。玄関を挟んで、脇に雪隠(せっちん)、次郎達の部屋。お藤の僅か二畳の女部屋は飛ばして。台所と土間、風呂場、もう一つ雪隠。
 と、此処まで来た所で、お美代は立ち止まった。
「この先の部屋にはまだ行っていないわよね?」
「はい」
「離れなんだけど、先代のお義父様が書斎に使われていた部屋でね。亡くなられた後も、ずっとそのままにしてあるのよ」
 廊下を進んで部屋の前まで来ると、お美代は一度お藤の顔を見てから、少し勿体振る様にして戸を開けた。
 部屋は雨戸が閉め切ったままで、土蔵の中のような暗さであり……いや、寧ろ部屋そのものは土蔵のような有様であった。部屋を埋め尽くさんばかりに、箱が幾つも重なって置いてあり、凡そ書斎というものには見えなかった。

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