【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。息子の深一郎は宿直を終えて、屋敷に帰って来たが、裏の井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。新しい下女だとは露知らず。家を間違えたと表へと飛び出したが……母のお美代が玄関まで様子を見に来て、漸く我が家だと合点。と、此処で深一郎は、明日から暫くの間、本書方勤めになる事を母に告げて……その後、深一郎とお藤は改めて初対面の挨拶を交わした。
二十九 井戸(四)
息子は飯を食べ終えると、自室にさっさと引き上げて、寝てしまった。
一方、お美代は羽織の綻びを直すのに格闘した。それをやっとこさ終えると、三度『見聞男女録』を取り出した。
(あ~、もうっ! 思いっきり邪魔が入ったわね)
さてさて。憂ひの君はお供の衣服を借りて身を窶(やつ)すと、娘の前へと進み出た。
道に迷ったと言って、娘の警戒を上手に解くと、菜を摘むのを手伝う。
『仄(ほの)咲きて千入(ちいり)染むるる藤の花 下照る芹(せり)を折りて香ぞする』
歌なんぞ詠んでやったりして、娘はもう、うっとり。
『君は引きしろへば、娘の手より芹が落ちにけり云々(うんぬん)』
と、此処までしか書いていないのだが、其処は其処。読者の娘達の頭の中はさぞかしモヤモヤのしっ放しに違いない。
君は明日も此処で会おうと娘と約束すると、お土産の芹を手に山を下りて行った。
はい、次! 三段目の『手結び』。
憂ひの君は次の日も山に登る。
娘は遅れてやって来るが、その手は畑仕事で汚れていた。君は娘を川縁に連れて行き、その手を洗ってやる。
ここで君は、喉が渇いて堪らない、どうかその手で私に水を飲ませておくれ、と娘に懇願する。
娘は両の掌(てのひら)で小川の水を掬(すく)って差し出すが、君は直ぐには飲もうとしない。何故飲まないの?と聞く娘。
君は答える。ほら、見てごらん。掌の水に藤の花が映って、綺麗な事。
娘が掌の水を覗き込むと、水面には自分の顔が映ていた。
君は駄目押しの一言を。あなたは山藤のように美しい。
娘は掌を結んだまま、顔を赤らめる。
漸く、君は娘の掌に顔を埋めて、水を飲んだ……此処も其処から先は書かれていないが、もう頭が爆発しそう。本を読んでいる娘達は全員、掌を結んで川の水を掬う真似をしているに違いない。序(つい)でに自分の顔を掌に埋めてみたりして。
さぁ~、さぁ~、四段目に突入。
憂ひの君は足繁く娘の元に通う。余りの熱の入れように、家司の惟武が諌めるが、君は聞く耳を持たない。服を早く貸せ、と逆にせっつかれる始末。
諦め顔の惟武は、『程なく移ろひさうらふなり』と嘆息しつつ、歌を詠む。
『つめどなほ匂いおこせり山藤や 衣のあるじうしろめたしも』
さぁ、此処で遂に山賤(やまがつ)の御登場~。
憂ひの君と娘が小川の辺で睦まじくしていると、山賤が姿を見せる。君は娘に手を引かれて、一緒に木陰に隠れる。
山賤は娘の名を呼び続けて、辺りを隈なく捜し回る。
(嗚呼~、このままでは見付かってしまう……)
「御免下さいっ!」
と、良い所だったのに、玄関から声が聞こえた。
お美代は本を隠すと、自分が出るからとお藤に一声掛けて、玄関に向った。
時代劇小説『みこもかる』更新中! 大きな目の持ち主で、無類の本好きの女の子、お藤ちゃん。恋愛沙汰に巻き込まれて、商家での下女の働き口を失うという災難に。さてさて、次の新しい奉公先は……
2017年4月6日木曜日
2017年4月2日日曜日
時代劇小説『みこみかる』 二八 井戸(三)
【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。病状が回復した憂ひの君は散策に出掛ける。山へと分け入ると、咲き誇る藤の花の下で賤(しず)の女(め)が山菜採りをしているのを見つけ……と、此処まで読んだ所で、邪魔が入る。宿直から帰宅した息子の深一郎が井戸で洗濯をしていたお藤と鉢合わせしたが、間違えましたとか言って、慌てて出て行ったという。
二十八 井戸(三)
外を覗いてみると……息子が門の辺りで、頻(しき)りに敷地の中を窺(うかが)っていた。
「深一郎!」
「あっ、母上」
「何をしているの、そんな所で?」
「あ、いえ……あっ!」
息子は漸く気付いたようで、裏の方を指差しながら、
「もしかして、新しく来た下女ですか?」
「そうよ。昨日の夕方来たのよ」
「なんだ~」
「なんだじゃないわよ。表に飛び出したっていうから、来てみれば!」
「いやぁ、寝惚けて全然違う家に入ったのかと思ったんですよ」
と、深一郎は頭を掻いていた。
「ほら。そんな所に立ってないで、早く入りなさい」
「はい」
「朝御飯は?」
「食べます……あっ、そうだ、母上! 自分は明日から暫くの間、本所方の方に通う事になりました」
「本所方?」
「はい。と言っても代役ですよ。鈴木さんがまたご病気になられて」
「まぁ」
「今度は少し長引きそうなので、治られるまで代わり行けと言われました」
「あら、そう……鈴木様、そんなにお体がお悪いのかしら?」
「どうなんでしょうね。まぁ、今日暇な内に、見舞いがてら挨拶に行こうと思っていますので。その時にでも」
「じゃあ、何かお持ちしないとね」
「はい、お願いします。あっ、それとこれなんですが……」
と、深一郎は左腕を上げた。
羽織の脇の所が解れていた。
「あらっ!」
「これもお願いします」
「はいはい……あっ! 紹介するから、ちょっと来なさい」
「はぁ……」
台所に戻ってみると、お藤は土間に立って待っていた。
(さて、どんな顔をするかしら?)
お美代がちらっと息子の顔を見てみると、懸命に顔を作っていた。
「紹介するわ。息子の深一郎よ」
「藤です。宜しくお願いします」
と、お藤は体が二つに折れんばかりに深く頭を下げた。
「深一郎です。こちらこそ宜しく」
頭を上げたお藤は再び息子と目が合ったのだが、思いっきり視線を逸らした。後はもう俯(うつむ)くばかりで……
(ありゃまぁ!)
「ああ、お藤。深一郎の膳の用意を頼むわ」
「はい」
息子の方はと言うと、そそくさと自分の部屋に行こうとしていた。
「羽織、脱いだら、こっちに持って来なさいよ!」
「はぁ」
と、深一郎は返事だか欠伸(あくび)だか判らぬのを返してきて、視界から消えた。
初心な息子が独りあたふたする。対して、今まで男の視線を死ぬ程浴びてきたお藤は平然とそれを受け止める。そういうのを予想していたのだが……結果は寧ろ逆で、お藤がこうも息子の事を意識するとは意外であった。
前の奉公先でああいう事が有ったので、雇い主の息子に過剰に反応してしまったのか? まさかお藤が内の息子に一目惚れしたとも思えないし。
お美代は茶の間に戻ったが、畳の上に『見聞男女録』が裸で置きっ放しになっていた。
(あら、いけない!)
と、本を奥の間に暫し隠した。
二十八 井戸(三)
外を覗いてみると……息子が門の辺りで、頻(しき)りに敷地の中を窺(うかが)っていた。
「深一郎!」
「あっ、母上」
「何をしているの、そんな所で?」
「あ、いえ……あっ!」
息子は漸く気付いたようで、裏の方を指差しながら、
「もしかして、新しく来た下女ですか?」
「そうよ。昨日の夕方来たのよ」
「なんだ~」
「なんだじゃないわよ。表に飛び出したっていうから、来てみれば!」
「いやぁ、寝惚けて全然違う家に入ったのかと思ったんですよ」
と、深一郎は頭を掻いていた。
「ほら。そんな所に立ってないで、早く入りなさい」
「はい」
「朝御飯は?」
「食べます……あっ、そうだ、母上! 自分は明日から暫くの間、本所方の方に通う事になりました」
「本所方?」
「はい。と言っても代役ですよ。鈴木さんがまたご病気になられて」
「まぁ」
「今度は少し長引きそうなので、治られるまで代わり行けと言われました」
「あら、そう……鈴木様、そんなにお体がお悪いのかしら?」
「どうなんでしょうね。まぁ、今日暇な内に、見舞いがてら挨拶に行こうと思っていますので。その時にでも」
「じゃあ、何かお持ちしないとね」
「はい、お願いします。あっ、それとこれなんですが……」
と、深一郎は左腕を上げた。
羽織の脇の所が解れていた。
「あらっ!」
「これもお願いします」
「はいはい……あっ! 紹介するから、ちょっと来なさい」
「はぁ……」
台所に戻ってみると、お藤は土間に立って待っていた。
(さて、どんな顔をするかしら?)
お美代がちらっと息子の顔を見てみると、懸命に顔を作っていた。
「紹介するわ。息子の深一郎よ」
「藤です。宜しくお願いします」
と、お藤は体が二つに折れんばかりに深く頭を下げた。
「深一郎です。こちらこそ宜しく」
頭を上げたお藤は再び息子と目が合ったのだが、思いっきり視線を逸らした。後はもう俯(うつむ)くばかりで……
(ありゃまぁ!)
「ああ、お藤。深一郎の膳の用意を頼むわ」
「はい」
息子の方はと言うと、そそくさと自分の部屋に行こうとしていた。
「羽織、脱いだら、こっちに持って来なさいよ!」
「はぁ」
と、深一郎は返事だか欠伸(あくび)だか判らぬのを返してきて、視界から消えた。
初心な息子が独りあたふたする。対して、今まで男の視線を死ぬ程浴びてきたお藤は平然とそれを受け止める。そういうのを予想していたのだが……結果は寧ろ逆で、お藤がこうも息子の事を意識するとは意外であった。
前の奉公先でああいう事が有ったので、雇い主の息子に過剰に反応してしまったのか? まさかお藤が内の息子に一目惚れしたとも思えないし。
お美代は茶の間に戻ったが、畳の上に『見聞男女録』が裸で置きっ放しになっていた。
(あら、いけない!)
と、本を奥の間に暫し隠した。
2017年4月1日土曜日
時代劇小説『みこみかる』 二七 井戸(二)
【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の同心池田重太郎とお美代夫婦の一人息子、深一郎は奉行所での宿直を終えて、我が家へと帰って来た。と、丁度、井戸端で洗濯をしていたお藤と鉢合わせ。裾から覗く、白い肌に吃驚仰天した深一郎は思わずその場から逃げ出したのであった。
二十七 井戸(二)
同じ頃、と言っても少し時を遡(さかのぼ)るが……お美代は茶の間で『見聞男女録』の続きを読んでいた。
話は移って、二段目の『山菜取りの少女(をとめ)』。
憂ひの君は寺に上がり、日々加持を受けて過ごす。やがて、体の具合も良くなると、聖の勧めもあって、散策へと出掛ける。
大きな川に沿って、上流に進んで行くと、左手の山から煙が立ち昇っていた。炭を焼く煙かと、興味を抱いた君は、その山へと向きを変える。
山からは小川が流れ出ており、それに沿って進んで行くと、都では盛りを過ぎた藤の花が、此処では丁度開花の頃で、色付き始めていた。
山藤の群生は更に上流へと続いており、君は馬から降りて歩いて見て回る。煙の事など疾(と)うに忘れていた。山藤の美しさに惹(ひ)かれて奥へ奥へと進むと、一際大きな房が目に留まった。
その下では、賤(しず)の女(め)が一人で菜を摘んでいた。
(う~ん、山藤ねえ。確かにこれは不味いかも。里の娘とお藤が何だか被ってしまうし……)
お美代は口絵を眺めながら頷いた。
口絵には、木陰から覗き見する君と、菜を取るのに夢中な娘。周りには、山藤の花が沢山描き込まれていた。
憂いの君が、お藤に懸想しようとした男に見えて仕方がない。きっとこのような状況だったのだろう。
(夫の言う通り、お藤には見せないようにしないと……)
と、其処(そこ)へ、突然、
「○▽ん、☓■ひゃー」
と、訳の分からない男の奇声が屋敷中に響き渡った。
(何事? 外のようだけど……ん! まさか、例の縁談相手の男がお藤の居所を掴んで乗り込んで来たかー?)
お美代は傍に置いてあった孫の手を掴んだ。意を決し、障子を開けて台所に出てみると……お藤が血相を変えて土間に入って来た。
「どうしたの? 今の声は何?」
「はい。深一郎様だと思うんですけど。男の方が裏に回られて来て。間違えましたと言って、直ぐに外に出て行かれて……」
お藤の瞳が、もうこれ以上無理というぐらい見開いていた。こんなに大きな目を持った娘は江戸市中にも居やしまい。見た事ないけど、大奥にも。もしかしたら、日の本一なんじゃないかと……
「嗚呼、ちょっと待ってて。見て来るから」
お美代は急いで玄関に行ってみたが、誰の姿も無かった。
二十七 井戸(二)
同じ頃、と言っても少し時を遡(さかのぼ)るが……お美代は茶の間で『見聞男女録』の続きを読んでいた。
話は移って、二段目の『山菜取りの少女(をとめ)』。
憂ひの君は寺に上がり、日々加持を受けて過ごす。やがて、体の具合も良くなると、聖の勧めもあって、散策へと出掛ける。
大きな川に沿って、上流に進んで行くと、左手の山から煙が立ち昇っていた。炭を焼く煙かと、興味を抱いた君は、その山へと向きを変える。
山からは小川が流れ出ており、それに沿って進んで行くと、都では盛りを過ぎた藤の花が、此処では丁度開花の頃で、色付き始めていた。
山藤の群生は更に上流へと続いており、君は馬から降りて歩いて見て回る。煙の事など疾(と)うに忘れていた。山藤の美しさに惹(ひ)かれて奥へ奥へと進むと、一際大きな房が目に留まった。
その下では、賤(しず)の女(め)が一人で菜を摘んでいた。
(う~ん、山藤ねえ。確かにこれは不味いかも。里の娘とお藤が何だか被ってしまうし……)
お美代は口絵を眺めながら頷いた。
口絵には、木陰から覗き見する君と、菜を取るのに夢中な娘。周りには、山藤の花が沢山描き込まれていた。
憂いの君が、お藤に懸想しようとした男に見えて仕方がない。きっとこのような状況だったのだろう。
(夫の言う通り、お藤には見せないようにしないと……)
と、其処(そこ)へ、突然、
「○▽ん、☓■ひゃー」
と、訳の分からない男の奇声が屋敷中に響き渡った。
(何事? 外のようだけど……ん! まさか、例の縁談相手の男がお藤の居所を掴んで乗り込んで来たかー?)
お美代は傍に置いてあった孫の手を掴んだ。意を決し、障子を開けて台所に出てみると……お藤が血相を変えて土間に入って来た。
「どうしたの? 今の声は何?」
「はい。深一郎様だと思うんですけど。男の方が裏に回られて来て。間違えましたと言って、直ぐに外に出て行かれて……」
お藤の瞳が、もうこれ以上無理というぐらい見開いていた。こんなに大きな目を持った娘は江戸市中にも居やしまい。見た事ないけど、大奥にも。もしかしたら、日の本一なんじゃないかと……
「嗚呼、ちょっと待ってて。見て来るから」
お美代は急いで玄関に行ってみたが、誰の姿も無かった。
2017年3月30日木曜日
時代劇小説『みこもかる』 二六 井戸
【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は新しく来た下女のお藤に家の中を案内する。本箱だらけの離れの書斎を出て、台所まで戻ると、野菜売りの留吉がやって来る。お藤の美貌に留吉はもうメロメロ。さて、お美代はお藤と一緒に茄子の品選びをするのだが、お藤の着古した小袖がふと目に入り、思わず嘆息するのであった。
二十六 井戸
池田重太郎とお美代夫婦の一粒種、深一郎は父と同じく北の御番所に勤めていた。
つい最近、同心見習いから同心並に目出度(めでた)く昇進したのだが、と言っても、やる事が急に変わるという訳でもない。上がつっかえているんで、これといった役目には着けずに、結局、未だ雑用全般をこなす身なのだが……
さて、昨晩は宿直で御番所に泊まり込み。先程漸く御役御免で解放されて、真っ直ぐ八丁堀の我が家に向っていた。
秋も終わりに近いというのに、朝の日差しが真夏のそれのように、やけに眩(まぶ)しかった。
目を顰(しか)めながら、自分の家の真ん前で、
「はぁ~」
と、一つ大きな欠伸をした。
門を抜けて、玄関に向ったが……裏の水口の方に人の気配を感じた。大方、母が自分で洗濯でもしているのだろう。
(そうそう。一つ、二つ伝えて置かなければいけない事が有る。声を掛けておくか)
と、深一郎はそのまま裏へと回った。
ぴちゃぴちゃと、水の音が聞こえて来た。
(嗚呼、やっぱりそうだ。洗濯してる)
もしかして長助かとも思いもしたが、
「ふん、ふん、ふん~」
と、母の、軽妙な鼻歌が漏れ聞こえる。
(何だ! 朝から随分と機嫌が良いな)
「母上。只今、」
と、何のけなしに言い掛けたが……全然知らない娘が、裾(すそ)をたくし上げて、洗濯物を足踏みしていた。豪(えら)く大きな目の持ち主で、こちらをぎょろりと見て取り、大いに射貫かれたが、それよりも、膝の辺りの白い肌が諸(もろ)見えしていた。
深一郎はもうすっかり気が動転してしまい、口がパクパク、
「す、済みません。間違えましたーっ!」
と、その場から一目散に逃げ出し、表の道に飛び出した。
2017年3月29日水曜日
時代劇小説『みこもかる』 二五 離れ(三)
【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は新しく来た下女のお藤に家の中を案内して回る。離れには亡くなった先代の蔵書が残されているのだが、部屋中本箱だらけで……お藤も面食らったようであった。
二十五 離れ(三)
台所に戻って来ると、
「お早うございます!」
と、野菜売りの留吉が戸口に顔を出した。案の定、お藤を一目見るなり、吃驚仰天。
「あら、お早う」
「あぁ、どうもお早ぅ……あ~! 新しい子ですかいっ?」
「そうよ。お藤というのよ」
と、お美代は得意げに答えた。
「初めまして。藤と申します」
「嗚呼、こりゃどうも。野菜売りの留吉と申します」
留吉は頭を上げた後も、お藤をがん見していた。
「お野菜、今日は何がお勧めかしら?」
「嗚呼、はい。茄子です、奥様」
「じゃあ、見せてもらおうかしら?」
「へい、どうぞ」
お美代はお藤と一緒に、手に籠を抱えて、外に置いてある天秤棒の前に屈み込んだ。
「立派な茄子ね」
「へい。向島の寺島茄子ですよ。取り立て新鮮。見て下さい。この綺麗な色」
留吉の声も一段と弾んでいた。
「いつものように、七掛け二、一四本でいいですかい?」
「ええ」
「どれにいたしましょう?」
「う~ん、そうねぃ……」
いつもの掛け合い。結局、留吉が全部選んでくれるのが常だが……お藤が前のめりになって、天秤棒の籠の茄子を眺めていた。
「お藤ちゃん、選ぶかい?」
はっ、とお藤は頭を引っ込めた。どうやら百姓の娘の血が騒いだらしい。
「いいわよ、選んで。さあ」
お美代が促すと、
「はい」
と、お藤は籠から念入りに一本一本を選び出していった。
「嗚呼、商売上がったりだ。良い奴ばかり選んでくぅー」
「あっ、ご免なさい」
「いやいや、冗談冗談。お藤ちゃん、見る目があるねぇ」
留吉が片目を瞑(つぶ)ってみせると、お藤は初々しく笑みを返した。
「ははっ。さあさあ、選んだ選んだ!」
お美代は傍で、楽しそうに残りの茄子を選ぶお藤の姿を眺めていたが……ふと、お藤の小袖が随分と着古しているのが、陽の下に居る所為か、或いは茄子の鮮やかな紫色の所為か、目に付いた。下女なら極当たり前の格好なのだが、お藤なら、空のような澄んだ明るい色や、紅葉のような艶やかな色もどんなに似合うだろうと想像した。自分の娘なら直ぐにでも新調してやれるのにとも。
二十五 離れ(三)
台所に戻って来ると、
「お早うございます!」
と、野菜売りの留吉が戸口に顔を出した。案の定、お藤を一目見るなり、吃驚仰天。
「あら、お早う」
「あぁ、どうもお早ぅ……あ~! 新しい子ですかいっ?」
「そうよ。お藤というのよ」
と、お美代は得意げに答えた。
「初めまして。藤と申します」
「嗚呼、こりゃどうも。野菜売りの留吉と申します」
留吉は頭を上げた後も、お藤をがん見していた。
「お野菜、今日は何がお勧めかしら?」
「嗚呼、はい。茄子です、奥様」
「じゃあ、見せてもらおうかしら?」
「へい、どうぞ」
お美代はお藤と一緒に、手に籠を抱えて、外に置いてある天秤棒の前に屈み込んだ。
「立派な茄子ね」
「へい。向島の寺島茄子ですよ。取り立て新鮮。見て下さい。この綺麗な色」
留吉の声も一段と弾んでいた。
「いつものように、七掛け二、一四本でいいですかい?」
「ええ」
「どれにいたしましょう?」
「う~ん、そうねぃ……」
いつもの掛け合い。結局、留吉が全部選んでくれるのが常だが……お藤が前のめりになって、天秤棒の籠の茄子を眺めていた。
「お藤ちゃん、選ぶかい?」
はっ、とお藤は頭を引っ込めた。どうやら百姓の娘の血が騒いだらしい。
「いいわよ、選んで。さあ」
お美代が促すと、
「はい」
と、お藤は籠から念入りに一本一本を選び出していった。
「嗚呼、商売上がったりだ。良い奴ばかり選んでくぅー」
「あっ、ご免なさい」
「いやいや、冗談冗談。お藤ちゃん、見る目があるねぇ」
留吉が片目を瞑(つぶ)ってみせると、お藤は初々しく笑みを返した。
「ははっ。さあさあ、選んだ選んだ!」
お美代は傍で、楽しそうに残りの茄子を選ぶお藤の姿を眺めていたが……ふと、お藤の小袖が随分と着古しているのが、陽の下に居る所為か、或いは茄子の鮮やかな紫色の所為か、目に付いた。下女なら極当たり前の格好なのだが、お藤なら、空のような澄んだ明るい色や、紅葉のような艶やかな色もどんなに似合うだろうと想像した。自分の娘なら直ぐにでも新調してやれるのにとも。
2017年3月2日木曜日
時代劇小説『みこもかる』 二四 離れ(二)
【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み始める。貴人が病を癒すために高名な聖の元に向かうという出だしであったが……昨晩来た下女のお藤に家の中を案内する為、読むのを一時中止。家の中をぐるっと回って、最後残るは離れの部屋。亡くなった先代が書斎に使っていたのだが、部屋中に本箱だらけであった。
二四 離れ(二)
「雨戸を開けましょうね」
と、お美代は自ら取り掛かった。
部屋の中に陽が差し込み、ぱっと明るくなった。
「箱の中身は全部本なのよ」
(さて、どんな顔をするかしら?)
本箱の数も相当なものだが、その中に収められている本も全部合わせると軽く千を超えてしまう。今まで内に奉公に来た子は例外なく皆、この部屋に案内すると目を丸くして驚くのが常であった。当然お藤もそうなるものと期待して、お美代は顔を覗き込んだが……猫のような大きな目は然程(さほど)見開いておらず。
(あれれ。そんなに驚いていないの?)
お美代は拍子抜けしつつ、言葉を継いだ。
「この部屋の本は堅苦しいのだったり、変なのばっかりでね。家の者は誰も見向きもしないから、夏の虫干し以外は、開かずの間みたいになっているのよ」
「……」
「今日みたいな天気が良い日には、こうして外の風を入れてあげてね」
「……」
お藤は聞こえていないのか、ぼーっと佇(たたず)んでいた。
「お藤!」
「あっ、はい」
お美代が顔を覗き込んで呼び掛けると、漸く、お藤は我に返った。
(ははっ。やっぱり驚いているみたい。当然よね)
「掃除もこの部屋は毎日しなくていいから。偶でいいわよ」
「はい」
「日が傾いたら、適当な時に雨戸を閉めちゃってね」
「はい」
部屋を後にしながら、お美代は両手をパチンと鳴らした。
「嗚呼、そうそう。言い忘れていたわ。内は主人の御役目柄、相談事や頼み事に訪れるお客様が多いの。玄関で私が話を聞く場合もあるし、茶の間に通して話を聞く場合もあるし。その時々なのよ」
「はい」
「お茶も、私が頼んだ時だけ、お出しすればいいから」
「はい」
「それと、もう一つ……聞いているかしら?」
と、お美代は今一度、お藤の顔を覗き込んだ。
「あぁ……旦那様の身内の方」
「そう。内の人のお姉さん。たまに来るけど、少し性格がきつめだから、用心してね」
「はい」
と、お藤は雛鳥のように小さく頷いた。
二四 離れ(二)
「雨戸を開けましょうね」
と、お美代は自ら取り掛かった。
部屋の中に陽が差し込み、ぱっと明るくなった。
「箱の中身は全部本なのよ」
(さて、どんな顔をするかしら?)
本箱の数も相当なものだが、その中に収められている本も全部合わせると軽く千を超えてしまう。今まで内に奉公に来た子は例外なく皆、この部屋に案内すると目を丸くして驚くのが常であった。当然お藤もそうなるものと期待して、お美代は顔を覗き込んだが……猫のような大きな目は然程(さほど)見開いておらず。
(あれれ。そんなに驚いていないの?)
お美代は拍子抜けしつつ、言葉を継いだ。
「この部屋の本は堅苦しいのだったり、変なのばっかりでね。家の者は誰も見向きもしないから、夏の虫干し以外は、開かずの間みたいになっているのよ」
「……」
「今日みたいな天気が良い日には、こうして外の風を入れてあげてね」
「……」
お藤は聞こえていないのか、ぼーっと佇(たたず)んでいた。
「お藤!」
「あっ、はい」
お美代が顔を覗き込んで呼び掛けると、漸く、お藤は我に返った。
(ははっ。やっぱり驚いているみたい。当然よね)
「掃除もこの部屋は毎日しなくていいから。偶でいいわよ」
「はい」
「日が傾いたら、適当な時に雨戸を閉めちゃってね」
「はい」
部屋を後にしながら、お美代は両手をパチンと鳴らした。
「嗚呼、そうそう。言い忘れていたわ。内は主人の御役目柄、相談事や頼み事に訪れるお客様が多いの。玄関で私が話を聞く場合もあるし、茶の間に通して話を聞く場合もあるし。その時々なのよ」
「はい」
「お茶も、私が頼んだ時だけ、お出しすればいいから」
「はい」
「それと、もう一つ……聞いているかしら?」
と、お美代は今一度、お藤の顔を覗き込んだ。
「あぁ……旦那様の身内の方」
「そう。内の人のお姉さん。たまに来るけど、少し性格がきつめだから、用心してね」
「はい」
と、お藤は雛鳥のように小さく頷いた。
2017年3月1日水曜日
時代劇小説『みこもかる』 二三 離れ
【前回の『みこもかる』は?】朝の調べ番屋。北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、同僚の吉井を相手に会話を交わす。話題は池田家の新しい下女お藤についてだが……その美貌に一人息子の深一郎が骨抜きにされたのではと、吉井が茶々を入れてきたが、生憎深一郎は昨晩宿直で、まだお藤とは顔を合わせていなかった。
二三 離れ
お美代は針仕事なんかそっちのけで……『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。
(さ~て。先ずは前付の序か。ふむふむ)
京都在住の、鄙良香(ひなのりょうか)なる人物は芝居見物の際、立ち寄った古本屋で一冊の備忘録を見つける。備忘録には幾つかの歌物語が書き留められていた。その内の一つ『花の下の乙女』という話は実に良く出来ているので、この話だけを取り出して、新たに一冊の本に纏(まと)めたのが本書である云々(うんぬん)と書かれていた。
(お決まりの筆者紹介ね。どうせ出鱈目(でたらめ)だろうけど)
さて、一段目は『宇治の眺め』。此処からがいよいよ物語の始まり。
瘧(わらい)病を患った貴人は治療を受ける為、高名な聖の元へ赴く。その途上、宇治で中宿りをする。翌朝出立するが、此処で一句。
『橘の小島の春は色ふれど 今偲ぶるは雪の足跡』
晩春の宇治の風景を眺めながら、女の所に通っていた冬の頃を懐かしむという歌を詠む。どうやら貴人は恋に破れた後で、病もそれが原因らしい。
と、此処で、筆者が再登場。本人にとってこの事実が世に伝わるのはさぞかし不名誉であろう。故に貴人の名も官名も一切伏せる。以後は『憂(うれ)ひ君』と呼ぶ云々とある。
(『源氏物語』の『光る君』に比べたら、ぱっとしないわね。しかし、この辺りの駆け出しは『若紫』の話っぽくて、若い娘の読者が飛び付くのも頷けるわ)
と、此処まで読んだところで、
「奥様、食べ終わりました」
と、お藤が声を掛けてきた。
お美代は着物の下に本を隠すと、立ち上がって障子を開けた。
「一度、一緒に家の中を見て回りましょうか?」
茶の間から右回りに、奥の間、仏間、息子の部屋。玄関を挟んで、脇に雪隠(せっちん)、次郎達の部屋。お藤の僅か二畳の女部屋は飛ばして。台所と土間、風呂場、もう一つ雪隠。
と、此処まで来た所で、お美代は立ち止まった。
「この先の部屋にはまだ行っていないわよね?」
「はい」
「離れなんだけど、先代のお義父様が書斎に使われていた部屋でね。亡くなられた後も、ずっとそのままにしてあるのよ」
廊下を進んで部屋の前まで来ると、お美代は一度お藤の顔を見てから、少し勿体振る様にして戸を開けた。
部屋は雨戸が閉め切ったままで、土蔵の中のような暗さであり……いや、寧ろ部屋そのものは土蔵のような有様であった。部屋を埋め尽くさんばかりに、箱が幾つも重なって置いてあり、凡そ書斎というものには見えなかった。
二三 離れ
お美代は針仕事なんかそっちのけで……『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。
(さ~て。先ずは前付の序か。ふむふむ)
京都在住の、鄙良香(ひなのりょうか)なる人物は芝居見物の際、立ち寄った古本屋で一冊の備忘録を見つける。備忘録には幾つかの歌物語が書き留められていた。その内の一つ『花の下の乙女』という話は実に良く出来ているので、この話だけを取り出して、新たに一冊の本に纏(まと)めたのが本書である云々(うんぬん)と書かれていた。
(お決まりの筆者紹介ね。どうせ出鱈目(でたらめ)だろうけど)
さて、一段目は『宇治の眺め』。此処からがいよいよ物語の始まり。
瘧(わらい)病を患った貴人は治療を受ける為、高名な聖の元へ赴く。その途上、宇治で中宿りをする。翌朝出立するが、此処で一句。
『橘の小島の春は色ふれど 今偲ぶるは雪の足跡』
晩春の宇治の風景を眺めながら、女の所に通っていた冬の頃を懐かしむという歌を詠む。どうやら貴人は恋に破れた後で、病もそれが原因らしい。
と、此処で、筆者が再登場。本人にとってこの事実が世に伝わるのはさぞかし不名誉であろう。故に貴人の名も官名も一切伏せる。以後は『憂(うれ)ひ君』と呼ぶ云々とある。
(『源氏物語』の『光る君』に比べたら、ぱっとしないわね。しかし、この辺りの駆け出しは『若紫』の話っぽくて、若い娘の読者が飛び付くのも頷けるわ)
と、此処まで読んだところで、
「奥様、食べ終わりました」
と、お藤が声を掛けてきた。
お美代は着物の下に本を隠すと、立ち上がって障子を開けた。
「一度、一緒に家の中を見て回りましょうか?」
茶の間から右回りに、奥の間、仏間、息子の部屋。玄関を挟んで、脇に雪隠(せっちん)、次郎達の部屋。お藤の僅か二畳の女部屋は飛ばして。台所と土間、風呂場、もう一つ雪隠。
と、此処まで来た所で、お美代は立ち止まった。
「この先の部屋にはまだ行っていないわよね?」
「はい」
「離れなんだけど、先代のお義父様が書斎に使われていた部屋でね。亡くなられた後も、ずっとそのままにしてあるのよ」
廊下を進んで部屋の前まで来ると、お美代は一度お藤の顔を見てから、少し勿体振る様にして戸を開けた。
部屋は雨戸が閉め切ったままで、土蔵の中のような暗さであり……いや、寧ろ部屋そのものは土蔵のような有様であった。部屋を埋め尽くさんばかりに、箱が幾つも重なって置いてあり、凡そ書斎というものには見えなかった。
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時代劇小説『みこみかる』 三三 井戸(八)
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