2017年3月30日木曜日

時代劇小説『みこもかる』 二六 井戸

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は新しく来た下女のお藤に家の中を案内する。本箱だらけの離れの書斎を出て、台所まで戻ると、野菜売りの留吉がやって来る。お藤の美貌に留吉はもうメロメロ。さて、お美代はお藤と一緒に茄子の品選びをするのだが、お藤の着古した小袖がふと目に入り、思わず嘆息するのであった。


     二十六 井戸

 池田重太郎とお美代夫婦の一粒種、深一郎は父と同じく北の御番所に勤めていた。
 つい最近、同心見習いから同心並に目出度(めでた)く昇進したのだが、と言っても、やる事が急に変わるという訳でもない。上がつっかえているんで、これといった役目には着けずに、結局、未だ雑用全般をこなす身なのだが……
 さて、昨晩は宿直で御番所に泊まり込み。先程漸く御役御免で解放されて、真っ直ぐ八丁堀の我が家に向っていた。
 秋も終わりに近いというのに、朝の日差しが真夏のそれのように、やけに眩(まぶ)しかった。
 目を顰(しか)めながら、自分の家の真ん前で、
「はぁ~」
 と、一つ大きな欠伸をした。
 門を抜けて、玄関に向ったが……裏の水口の方に人の気配を感じた。大方、母が自分で洗濯でもしているのだろう。
(そうそう。一つ、二つ伝えて置かなければいけない事が有る。声を掛けておくか)
 と、深一郎はそのまま裏へと回った。
 ぴちゃぴちゃと、水の音が聞こえて来た。
(嗚呼、やっぱりそうだ。洗濯してる)
 もしかして長助かとも思いもしたが、
「ふん、ふん、ふん~」
 と、母の、軽妙な鼻歌が漏れ聞こえる。
(何だ! 朝から随分と機嫌が良いな)
「母上。只今、」
 と、何のけなしに言い掛けたが……全然知らない娘が、裾(すそ)をたくし上げて、洗濯物を足踏みしていた。豪(えら)く大きな目の持ち主で、こちらをぎょろりと見て取り、大いに射貫かれたが、それよりも、膝の辺りの白い肌が諸(もろ)見えしていた。
 深一郎はもうすっかり気が動転してしまい、口がパクパク、
「す、済みません。間違えましたーっ!」
 と、その場から一目散に逃げ出し、表の道に飛び出した。

2017年3月29日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 二五 離れ(三)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は新しく来た下女のお藤に家の中を案内して回る。離れには亡くなった先代の蔵書が残されているのだが、部屋中本箱だらけで……お藤も面食らったようであった。


     二十五 離れ(三)

 台所に戻って来ると、
「お早うございます!」
 と、野菜売りの留吉が戸口に顔を出した。案の定、お藤を一目見るなり、吃驚仰天。
「あら、お早う」
「あぁ、どうもお早ぅ……あ~! 新しい子ですかいっ?」
「そうよ。お藤というのよ」
 と、お美代は得意げに答えた。
「初めまして。藤と申します」
「嗚呼、こりゃどうも。野菜売りの留吉と申します」
 留吉は頭を上げた後も、お藤をがん見していた。
「お野菜、今日は何がお勧めかしら?」
「嗚呼、はい。茄子です、奥様」
「じゃあ、見せてもらおうかしら?」
「へい、どうぞ」
 お美代はお藤と一緒に、手に籠を抱えて、外に置いてある天秤棒の前に屈み込んだ。
「立派な茄子ね」
「へい。向島の寺島茄子ですよ。取り立て新鮮。見て下さい。この綺麗な色」
 留吉の声も一段と弾んでいた。
「いつものように、七掛け二、一四本でいいですかい?」
「ええ」
「どれにいたしましょう?」
「う~ん、そうねぃ……」
 いつもの掛け合い。結局、留吉が全部選んでくれるのが常だが……お藤が前のめりになって、天秤棒の籠の茄子を眺めていた。
「お藤ちゃん、選ぶかい?」
 はっ、とお藤は頭を引っ込めた。どうやら百姓の娘の血が騒いだらしい。
「いいわよ、選んで。さあ」
 お美代が促すと、
「はい」
 と、お藤は籠から念入りに一本一本を選び出していった。
「嗚呼、商売上がったりだ。良い奴ばかり選んでくぅー」
「あっ、ご免なさい」
「いやいや、冗談冗談。お藤ちゃん、見る目があるねぇ」
 留吉が片目を瞑(つぶ)ってみせると、お藤は初々しく笑みを返した。
「ははっ。さあさあ、選んだ選んだ!」
 お美代は傍で、楽しそうに残りの茄子を選ぶお藤の姿を眺めていたが……ふと、お藤の小袖が随分と着古しているのが、陽の下に居る所為か、或いは茄子の鮮やかな紫色の所為か、目に付いた。下女なら極当たり前の格好なのだが、お藤なら、空のような澄んだ明るい色や、紅葉のような艶やかな色もどんなに似合うだろうと想像した。自分の娘なら直ぐにでも新調してやれるのにとも。

2017年3月2日木曜日

時代劇小説『みこもかる』 二四 離れ(二)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み始める。貴人が病を癒すために高名な聖の元に向かうという出だしであったが……昨晩来た下女のお藤に家の中を案内する為、読むのを一時中止。家の中をぐるっと回って、最後残るは離れの部屋。亡くなった先代が書斎に使っていたのだが、部屋中に本箱だらけであった。


     二四 離れ(二)

「雨戸を開けましょうね」
 と、お美代は自ら取り掛かった。
 部屋の中に陽が差し込み、ぱっと明るくなった。
「箱の中身は全部本なのよ」
(さて、どんな顔をするかしら?)
 本箱の数も相当なものだが、その中に収められている本も全部合わせると軽く千を超えてしまう。今まで内に奉公に来た子は例外なく皆、この部屋に案内すると目を丸くして驚くのが常であった。当然お藤もそうなるものと期待して、お美代は顔を覗き込んだが……猫のような大きな目は然程(さほど)見開いておらず。
(あれれ。そんなに驚いていないの?) 
 お美代は拍子抜けしつつ、言葉を継いだ。
「この部屋の本は堅苦しいのだったり、変なのばっかりでね。家の者は誰も見向きもしないから、夏の虫干し以外は、開かずの間みたいになっているのよ」
「……」
「今日みたいな天気が良い日には、こうして外の風を入れてあげてね」
「……」
 お藤は聞こえていないのか、ぼーっと佇(たたず)んでいた。
「お藤!」
「あっ、はい」
 お美代が顔を覗き込んで呼び掛けると、漸く、お藤は我に返った。
(ははっ。やっぱり驚いているみたい。当然よね)
「掃除もこの部屋は毎日しなくていいから。偶でいいわよ」
「はい」
「日が傾いたら、適当な時に雨戸を閉めちゃってね」
「はい」
 部屋を後にしながら、お美代は両手をパチンと鳴らした。
「嗚呼、そうそう。言い忘れていたわ。内は主人の御役目柄、相談事や頼み事に訪れるお客様が多いの。玄関で私が話を聞く場合もあるし、茶の間に通して話を聞く場合もあるし。その時々なのよ」
「はい」
「お茶も、私が頼んだ時だけ、お出しすればいいから」
「はい」
「それと、もう一つ……聞いているかしら?」
 と、お美代は今一度、お藤の顔を覗き込んだ。
「あぁ……旦那様の身内の方」
「そう。内の人のお姉さん。たまに来るけど、少し性格がきつめだから、用心してね」
「はい」
 と、お藤は雛鳥のように小さく頷いた。

2017年3月1日水曜日

時代劇小説『みこもかる』 二三 離れ

【前回の『みこもかる』は?】朝の調べ番屋。北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎は、同僚の吉井を相手に会話を交わす。話題は池田家の新しい下女お藤についてだが……その美貌に一人息子の深一郎が骨抜きにされたのではと、吉井が茶々を入れてきたが、生憎深一郎は昨晩宿直で、まだお藤とは顔を合わせていなかった。


     二三 離れ

 お美代は針仕事なんかそっちのけで……『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。
(さ~て。先ずは前付の序か。ふむふむ)
 京都在住の、鄙良香(ひなのりょうか)なる人物は芝居見物の際、立ち寄った古本屋で一冊の備忘録を見つける。備忘録には幾つかの歌物語が書き留められていた。その内の一つ『花の下の乙女』という話は実に良く出来ているので、この話だけを取り出して、新たに一冊の本に纏(まと)めたのが本書である云々(うんぬん)と書かれていた。
(お決まりの筆者紹介ね。どうせ出鱈目(でたらめ)だろうけど)
 さて、一段目は『宇治の眺め』。此処からがいよいよ物語の始まり。
 瘧(わらい)病を患った貴人は治療を受ける為、高名な聖の元へ赴く。その途上、宇治で中宿りをする。翌朝出立するが、此処で一句。
『橘の小島の春は色ふれど 今偲ぶるは雪の足跡』
 晩春の宇治の風景を眺めながら、女の所に通っていた冬の頃を懐かしむという歌を詠む。どうやら貴人は恋に破れた後で、病もそれが原因らしい。
 と、此処で、筆者が再登場。本人にとってこの事実が世に伝わるのはさぞかし不名誉であろう。故に貴人の名も官名も一切伏せる。以後は『憂(うれ)ひ君』と呼ぶ云々とある。
(『源氏物語』の『光る君』に比べたら、ぱっとしないわね。しかし、この辺りの駆け出しは『若紫』の話っぽくて、若い娘の読者が飛び付くのも頷けるわ)
 と、此処まで読んだところで、
「奥様、食べ終わりました」
 と、お藤が声を掛けてきた。
 お美代は着物の下に本を隠すと、立ち上がって障子を開けた。
「一度、一緒に家の中を見て回りましょうか?」
 茶の間から右回りに、奥の間、仏間、息子の部屋。玄関を挟んで、脇に雪隠(せっちん)、次郎達の部屋。お藤の僅か二畳の女部屋は飛ばして。台所と土間、風呂場、もう一つ雪隠。
 と、此処まで来た所で、お美代は立ち止まった。
「この先の部屋にはまだ行っていないわよね?」
「はい」
「離れなんだけど、先代のお義父様が書斎に使われていた部屋でね。亡くなられた後も、ずっとそのままにしてあるのよ」
 廊下を進んで部屋の前まで来ると、お美代は一度お藤の顔を見てから、少し勿体振る様にして戸を開けた。
 部屋は雨戸が閉め切ったままで、土蔵の中のような暗さであり……いや、寧ろ部屋そのものは土蔵のような有様であった。部屋を埋め尽くさんばかりに、箱が幾つも重なって置いてあり、凡そ書斎というものには見えなかった。

時代劇小説『みこみかる』 三三 井戸(八)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。昨晩宿直だった息子の深一郎は、昼過ぎに目を覚ます。裏の井戸で顔を洗うが、手拭いを忘れてしまい、袖で拭こうとしたが……其処へ、お藤が来て、手拭いを差し出す。が、深一郎は誤ってお藤の手をギュッと握ってしまい、彼女を驚かせてしまうのだっ...