【前回の『みこもかる』は?】夫重太郎が捕らえた潜りの貸本屋の艶本の中に紛れていた公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』。何でも、若い娘の間で人気とかで、昨晩、夫は寝ずに読み明かしたのだが……翌朝、妻のお美代は夫から本を借り受けると、針仕事は放ったらかしにして読み始めた。
二二 調べ番屋
季節柄か、調べ番屋の腰高障子は締め切られていた。
供回りの三人の中で一番下っ端の長助は全く気が利かず……次郎が先回りして障子を開けた。
重太郎が中に足を踏み入れると、いつも出足の遅い吉井が珍しく先に来ていた。
「遅いぞ」
「お前が早い」
二人で掛け合いをしていると、
「池田さん、御早う御座います」
と、昨日は姿が見えなかった山本が声を掛けてきた。自分や吉井とは一回り年の違う、若い定町廻り同心である。
「おっ」
と重太郎が返事をしていると……吉井が横から口を挟んだ。
「ふっ。何だ、その目は? 隈(くま)が出来てるぞ。昨晩遅くまで艶本を読み耽ったか? それとも、お美代殿で試してみたのか?」
吉井の吐いた言葉のどぎつさに、その場に居合わせた者達も流石に笑うに笑えず。
周りに人が居なければ小突いてやる所だが……重太郎はそのまま框に腰を下ろした。
「あはははっ!」
と、吉井の馬鹿笑いだけが土間に鳴り響いた。
「悪い、悪い。少々ふざけ過ぎた」
吉井は右の掌を立てて謝ると、
「所で、どうだった、お藤は? お美代殿は気に入られたか?」
「ん、まあな。大丈夫だろう」
「おお、そうか。それは良かった……しかし、惜しい事をした」
「何が?」
「後で気が付いたんだが。俺ん所のおふさをそっちに回して、お藤を内に入れれば良かったんだな」
「今更遅い」
「交換しよう」
「断る」
「嗚~呼っ」
と、吉井は残念そうに体を反らした。
「あっ、深一郎はどうだった? もう骨抜きにされたか?」
「深一郎は昨晩宿直で居なかった」
「何だ、まだ会っていないのか?」
吉井は膝を叩いて残念がったが、
「ん、丁度今帰って来る頃合いか? よし、ちと覗きに行くか! 面白いぞ、きっと」
「旦那、どうぞ」
と、吾作が茶を持って来て、吉井の戯言を遮った。
「おっ、済まんな。て、あちち」
吉井が言った、骨抜き云々というのは正しくそうであった。
お藤に懸想した例の男と同様、息子の深一郎も心を奪われるに疑いなかった。だが一方、息子はかなりの不粋者なので、お藤を目の前にしたら陸に口も聞けぬだろう。その男のような不義理な真似はしないとの信用もあり、要らぬ心配かと思われた。
時代劇小説『みこもかる』更新中! 大きな目の持ち主で、無類の本好きの女の子、お藤ちゃん。恋愛沙汰に巻き込まれて、商家での下女の働き口を失うという災難に。さてさて、次の新しい奉公先は……
2017年2月27日月曜日
2017年2月26日日曜日
時代劇小説『みこもかる』 二一 奥の間
【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎宅では、下女のお藤を雇い入れて、初めての朝を迎えていた。その働き振りには、妻のお美代も満足気だが……裏の水口にやって来る下っ引きや振り売りが一人残らず、お藤に逆上(のぼ)せていく様は圧巻で……呆れつつも、女はやはり顔だと自問自答した。
二一 奥の間
そろそろ朝五つ。夫、重太郎が家を出る時刻で……お美代は着替えを手伝っていた。夫の背後に回って羽織を着せていたが、傍に置いてある包みが気になって、ついそちらに目が行く。
昨晩、夫は『見聞男女録(けんもんをとめろく)』なる公家物の御伽草子を読み耽っていたのだが……奥の間を見渡しても、何処にも置いていない。という事は、やはり、一晩で読み終えたという事か。で、今はあの包みの中……
「読みたいか?」
「えっ?」
「読みたいなら、読んでもいいぞ」
「宜しいのですか?」
「ああ。だが、一応証拠の物(ぶつ)だからな。いつまでも戻さないのは不味い。読むなら今日か明日中にでも読んでしまえ」
「はい」
と、お美代は浮き浮きしながら、刀掛けの小刀を取った。
「あー、お藤の目には触れないようにした方がいいかもな」
「えっ、何故です?」
「一応男女の恋の話だからな。前の奉公先で、ああいう事があったばかりだから……変に思い出して、気を揉んだりするかもしれん」
「嗚呼、そうですね」
「今はとても読む気分じゃないだろう」
「はい。分かりました」
夫を見送りに玄関に出ると……くっちゃべって和んでいた次郎達が口を閉じて、すっと立ち竦んだ。
「行ってらっしゃいませ」
「うむ」
夫達の姿が見えなくなると、お美代は台所に顔を出した。
お藤は丁度お茶碗にご飯をお替りしようとしている所で……目が合うと、お藤はしゃもじを引っ込めて、お櫃(ひつ)の蓋(ふた)を閉めようとした。
「嗚呼、直ぐに用事がある訳じゃないから。いいのよ。遠慮しないで、好きなだけ食べなさい」
「はい」
「急がなくていいから。ゆっくりでいいわよ」
お美代は障子を一つ隔てた茶の間に行くや、着物や裁縫道具を広げて、如何にも針仕事をしているように偽装した。そして、奥から『見聞男女録』を持って来ると、こっそり読み始めた。
二一 奥の間
そろそろ朝五つ。夫、重太郎が家を出る時刻で……お美代は着替えを手伝っていた。夫の背後に回って羽織を着せていたが、傍に置いてある包みが気になって、ついそちらに目が行く。
昨晩、夫は『見聞男女録(けんもんをとめろく)』なる公家物の御伽草子を読み耽っていたのだが……奥の間を見渡しても、何処にも置いていない。という事は、やはり、一晩で読み終えたという事か。で、今はあの包みの中……
「読みたいか?」
「えっ?」
「読みたいなら、読んでもいいぞ」
「宜しいのですか?」
「ああ。だが、一応証拠の物(ぶつ)だからな。いつまでも戻さないのは不味い。読むなら今日か明日中にでも読んでしまえ」
「はい」
と、お美代は浮き浮きしながら、刀掛けの小刀を取った。
「あー、お藤の目には触れないようにした方がいいかもな」
「えっ、何故です?」
「一応男女の恋の話だからな。前の奉公先で、ああいう事があったばかりだから……変に思い出して、気を揉んだりするかもしれん」
「嗚呼、そうですね」
「今はとても読む気分じゃないだろう」
「はい。分かりました」
夫を見送りに玄関に出ると……くっちゃべって和んでいた次郎達が口を閉じて、すっと立ち竦んだ。
「行ってらっしゃいませ」
「うむ」
夫達の姿が見えなくなると、お美代は台所に顔を出した。
お藤は丁度お茶碗にご飯をお替りしようとしている所で……目が合うと、お藤はしゃもじを引っ込めて、お櫃(ひつ)の蓋(ふた)を閉めようとした。
「嗚呼、直ぐに用事がある訳じゃないから。いいのよ。遠慮しないで、好きなだけ食べなさい」
「はい」
「急がなくていいから。ゆっくりでいいわよ」
お美代は障子を一つ隔てた茶の間に行くや、着物や裁縫道具を広げて、如何にも針仕事をしているように偽装した。そして、奥から『見聞男女録』を持って来ると、こっそり読み始めた。
2017年2月21日火曜日
時代劇小説『みこもかる』 二十 台所
【前回の『みこもかる』は?】北町奉行所の定町廻り同心池田重太郎宅では、信州出のお藤を下女として雇い入れたものだが……前の奉公先を辞めた経緯にしろ、郷での複雑過ぎる家庭環境にしろ、色々事情が目白押しで……妻のお美代は床に就いたのだが、それらが気になり、中々寝付けなかった。
第二章
二十 台所
「ふぁ~」
と、お美代は大きな欠伸が出てしまい、咄嗟(とっさ)に口を押さえた。
竈(かまど)の火の具合を見ていたお藤と目が合ったが……控えめな笑みが帰って来た。何とも可愛げで、女の自分でも思わずきゅんとしてしまう。
我が家は定町廻り同心という御役目上、朝から訪問者が多かった。夫が手札を与えている御用聞きは二十人近く居る。それらが使いとして寄越す下っ引きが、毎朝四、五人とやって来る。更に、納豆売り、豆腐売り、蜆(しじみ)売りといった振り売りを加えると、朝から十人以上の男達が入れ代わり立ち代りに裏の水口に顔を出すのだが……それらがお藤を一目見るなり、次々と骨抜きにされていく様は将に圧巻で、女はやっぱり顔だとつくづく納得させられた。
お藤と二人、朝餉(あさげ)の支度に追われていたが……またもや、外から足音が聞えて来た。
「お早う御座います」
戸口に顔を出したのは髪結の十三だった。
「あら、十さん。お早う」
「あっ……」
と、十三も早速お藤に目を惹かれていたが、他の男達のように口を開きっ放しにするような、だらしない真似はしなかった。
「奥様、代わりに来た子ですか?」
「ええ。お藤というの」
と、お美代は顔だけそちらに向けて返事をしたが、
「初めまして。藤と申します」
お藤は手を止めて、きちんと挨拶をした。
「こちらこそ初めまして。十三と申します」
「嗚呼、今最後の一人ですから、どうぞお座りになって」
夫は使いの下っ引きと、縁側でまだ話の最中だった。
十三は髪結の道具が入った台箱を置いて、板間に腰掛けた。
「うん……綺麗な肌をしている。おふぢさんは秋田の出かな?」
「いえ、信州の松代です」
「ほう。真田様の御領地」
「はい」
「それはまた遠い所から……」
秋田というのは褒め言葉で、てっきり江戸近郊の村の出と思っていたのだろう。
「桶を取って来ます」
と、お藤が台所を離れた。
「可愛い娘さんですね」
「ええ、まぁ」
そんな会話を交わしていると、入れ代わりに
「奥様、終わりました!」
と、下っ引きが土間に顔を出した。
「あら、御苦労様」
「へい」
と、下っ引きは答えつつ、お藤の姿が見当たらないので、残念そうな顔を垣間見せた。
「それじゃあ、あっしはこれで失礼します」
仕方なしに帰ろうとしたが……お藤が桶を手に戻って来た。
「嗚呼っ、お茶、ご馳走さまでした!」
「いいえ」
「それじゃ、どうも」
下っ引きは最後にお藤と言葉を交わせる事が出来て、満足そうに帰って行った。
「よいしょと。さぁ、一仕事」
と、十三が立ち上がった。
お藤が桶に湯を注ぐと、ふわっと白い湯煙が立ち上った。
お美代はその様をちらり見しながら、感心感心と頷いた。
第二章
二十 台所
「ふぁ~」
と、お美代は大きな欠伸が出てしまい、咄嗟(とっさ)に口を押さえた。
竈(かまど)の火の具合を見ていたお藤と目が合ったが……控えめな笑みが帰って来た。何とも可愛げで、女の自分でも思わずきゅんとしてしまう。
我が家は定町廻り同心という御役目上、朝から訪問者が多かった。夫が手札を与えている御用聞きは二十人近く居る。それらが使いとして寄越す下っ引きが、毎朝四、五人とやって来る。更に、納豆売り、豆腐売り、蜆(しじみ)売りといった振り売りを加えると、朝から十人以上の男達が入れ代わり立ち代りに裏の水口に顔を出すのだが……それらがお藤を一目見るなり、次々と骨抜きにされていく様は将に圧巻で、女はやっぱり顔だとつくづく納得させられた。
お藤と二人、朝餉(あさげ)の支度に追われていたが……またもや、外から足音が聞えて来た。
「お早う御座います」
戸口に顔を出したのは髪結の十三だった。
「あら、十さん。お早う」
「あっ……」
と、十三も早速お藤に目を惹かれていたが、他の男達のように口を開きっ放しにするような、だらしない真似はしなかった。
「奥様、代わりに来た子ですか?」
「ええ。お藤というの」
と、お美代は顔だけそちらに向けて返事をしたが、
「初めまして。藤と申します」
お藤は手を止めて、きちんと挨拶をした。
「こちらこそ初めまして。十三と申します」
「嗚呼、今最後の一人ですから、どうぞお座りになって」
夫は使いの下っ引きと、縁側でまだ話の最中だった。
十三は髪結の道具が入った台箱を置いて、板間に腰掛けた。
「うん……綺麗な肌をしている。おふぢさんは秋田の出かな?」
「いえ、信州の松代です」
「ほう。真田様の御領地」
「はい」
「それはまた遠い所から……」
秋田というのは褒め言葉で、てっきり江戸近郊の村の出と思っていたのだろう。
「桶を取って来ます」
と、お藤が台所を離れた。
「可愛い娘さんですね」
「ええ、まぁ」
そんな会話を交わしていると、入れ代わりに
「奥様、終わりました!」
と、下っ引きが土間に顔を出した。
「あら、御苦労様」
「へい」
と、下っ引きは答えつつ、お藤の姿が見当たらないので、残念そうな顔を垣間見せた。
「それじゃあ、あっしはこれで失礼します」
仕方なしに帰ろうとしたが……お藤が桶を手に戻って来た。
「嗚呼っ、お茶、ご馳走さまでした!」
「いいえ」
「それじゃ、どうも」
下っ引きは最後にお藤と言葉を交わせる事が出来て、満足そうに帰って行った。
「よいしょと。さぁ、一仕事」
と、十三が立ち上がった。
お藤が桶に湯を注ぐと、ふわっと白い湯煙が立ち上った。
お美代はその様をちらり見しながら、感心感心と頷いた。
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