2017年4月9日日曜日

時代劇小説『みこみかる』 三二 井戸(七)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は玄関先で三河屋を応対していた。口入屋の間で、お藤という名の小女と請人の半次郎が美人局紛いの事をしているという話に耳を疑ったが、まさか今、内に居る下女がそれだとは口が避けても言えず。三河屋が帰った後、お美代はお藤に針仕事を頼むが……お藤の素直な態度を見ていると、やはり三河屋の話は出鱈目(でたらめ)に思えた。


     三十二 井戸(七)

「うう~ん」
 と、深一郎は目を覚ました。
 玄関脇の厠で用を足し、茶の間に顔を出してみると……母は針仕事を放り出して、貸本を読んでいた。場が悪そうに、本を置くと、
「あら、起きたの?」
「はい」
「羽織の解(ほつ)れ、直しておいたから、持って行きなさい」
 一応やる事はやっていたらしい。
「今、何時です?」
「もうそろそろ八つだと思うけど。嗚呼、鈴木様の所に行くんだったわね?」
「はい」
「お昼はどうする?」
「んー、減ってないんで、取り敢えずいいです」
「そう」
「あっ、見舞いの品は?」
「羊羹(ようかん)が有るから、それでいいでしょう?」
「はい」
「今、用意するから。顔でも洗って来なさい」
 母は台所に出て行き、自分も後に続こうとしたが……そちらにはお藤が居るのを思い出して足が止まった。朝の対面の時のように、顔を背かれるのではないかとの想いが頭を過ぎった。
(自分の家で何を躊躇している。えーい、成るが儘(まま)よ!)
 勇気を振り絞って台所に入ったが、
「ほら、邪魔っ!」
 羊羹の入った箱を片手に、茶の間へと戻ろうとしていた母と肩がぶつかり、邪険にされた。
 と、其処へ、
「お早う御座います」
 と、お藤が手を止めて、声を掛けてきた。こちらはちゃんと真面目に針仕事をしていた。
「おっ」
 と、深一郎は短く返事をすると、そのまま裏の井戸に出た。水を汲んで、じゃぶじゃぶと顔を洗っていたが、
「あっ!」
 手拭いが無いのに気付いた。
(まあ、いいか)
 と、袖で拭こうとした所……軽い足音が近づいて来た。小刻みで、軽やかな足音でで、母のでないのは明らかだった。
「どうぞ」
「おっ、済まんな」
「いえ」
 差し出された手拭いを受け取ろうとしたが……顔が濡れて視界が利かなかったのと、若干顔を背け気味にした所為で……お藤の手首の辺りを思いっきり、ぎゅっと摑んでしまった。
「きゃっ!」
「あっ、済まん。間違えた」
 直ぐに手を離して謝ったが、お藤は右手を胸に引き寄せて、困惑顔をしていた。
「わっ、態(わざ)とではない。本当だっ!」
「……」
 お藤は無言で頭を僅かに下げると、家の中へと駆けて行った。
 深一郎はそれを虚(むな)しく見送る事しか出来なかった。

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