2017年4月2日日曜日

時代劇小説『みこみかる』 二八 井戸(三)

【前回の『みこもかる』は?】八丁堀の池田重太郎宅。妻のお美代は公家物の御伽草子『見聞男女録(けんもんをとめろく)』を読み耽っていた。病状が回復した憂ひの君は散策に出掛ける。山へと分け入ると、咲き誇る藤の花の下で賤(しず)の女(め)が山菜採りをしているのを見つけ……と、此処まで読んだ所で、邪魔が入る。宿直から帰宅した息子の深一郎が井戸で洗濯をしていたお藤と鉢合わせしたが、間違えましたとか言って、慌てて出て行ったという。


     二十八 井戸(三)

 外を覗いてみると……息子が門の辺りで、頻(しき)りに敷地の中を窺(うかが)っていた。
「深一郎!」
「あっ、母上」
「何をしているの、そんな所で?」
「あ、いえ……あっ!」
 息子は漸く気付いたようで、裏の方を指差しながら、
「もしかして、新しく来た下女ですか?」
「そうよ。昨日の夕方来たのよ」
「なんだ~」
「なんだじゃないわよ。表に飛び出したっていうから、来てみれば!」
「いやぁ、寝惚けて全然違う家に入ったのかと思ったんですよ」
 と、深一郎は頭を掻いていた。
「ほら。そんな所に立ってないで、早く入りなさい」
「はい」
「朝御飯は?」
「食べます……あっ、そうだ、母上! 自分は明日から暫くの間、本所方の方に通う事になりました」
「本所方?」
「はい。と言っても代役ですよ。鈴木さんがまたご病気になられて」
「まぁ」
「今度は少し長引きそうなので、治られるまで代わり行けと言われました」
「あら、そう……鈴木様、そんなにお体がお悪いのかしら?」
「どうなんでしょうね。まぁ、今日暇な内に、見舞いがてら挨拶に行こうと思っていますので。その時にでも」
「じゃあ、何かお持ちしないとね」
「はい、お願いします。あっ、それとこれなんですが……」
 と、深一郎は左腕を上げた。
 羽織の脇の所が解れていた。
「あらっ!」
「これもお願いします」
「はいはい……あっ! 紹介するから、ちょっと来なさい」
「はぁ……」
 台所に戻ってみると、お藤は土間に立って待っていた。
(さて、どんな顔をするかしら?)
 お美代がちらっと息子の顔を見てみると、懸命に顔を作っていた。
「紹介するわ。息子の深一郎よ」
「藤です。宜しくお願いします」
 と、お藤は体が二つに折れんばかりに深く頭を下げた。
「深一郎です。こちらこそ宜しく」
 頭を上げたお藤は再び息子と目が合ったのだが、思いっきり視線を逸らした。後はもう俯(うつむ)くばかりで……
(ありゃまぁ!)
「ああ、お藤。深一郎の膳の用意を頼むわ」
「はい」
 息子の方はと言うと、そそくさと自分の部屋に行こうとしていた。
「羽織、脱いだら、こっちに持って来なさいよ!」
「はぁ」
 と、深一郎は返事だか欠伸(あくび)だか判らぬのを返してきて、視界から消えた。
 初心な息子が独りあたふたする。対して、今まで男の視線を死ぬ程浴びてきたお藤は平然とそれを受け止める。そういうのを予想していたのだが……結果は寧ろ逆で、お藤がこうも息子の事を意識するとは意外であった。
 前の奉公先でああいう事が有ったので、雇い主の息子に過剰に反応してしまったのか? まさかお藤が内の息子に一目惚れしたとも思えないし。
 お美代は茶の間に戻ったが、畳の上に『見聞男女録』が裸で置きっ放しになっていた。
(あら、いけない!)
 と、本を奥の間に暫し隠した。

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